【プロローグ】 |
「っざけんなよ、テメェッ!」 ガッ、と鈍い音がして、少年が地面に倒れこんだ。 倒れた少年を殴り飛ばしたのは、これも同じ年くらいの少年だ。 暦は3月の最終日。春の気配も濃厚になり、道端の桜の木々が蕾をほころばせ始める、そんな季節。麗らかな初春の陽気の下で、しかしこの場ではそんな陽気の暖かさも無縁の修羅場が演じられていた。 ところは県立筒貫高校の校舎裏、その場にいるのは3人の少年である。 一人は殴られ倒れこんだ黒髪の真面目そうな少年、安遠一好。 一人はその一好を殴り飛ばした茶髪の少年、助信大地。 そして最後の一人はそんな二人の様子に額に手をやって深いため息をつく、赤いフレームの派手な眼鏡をかけた少年、賀来日光だ。 「一好、てめぇの面は当分見たくはねぇ……日光! お前もお前だ、余計なことしてんじゃねぇよっ!」 大地はそう言い捨て地面に唾は吐くと、肩を怒らせてその場を後にした。 「あ、ちょっと、待てよ大地っ!」 「うるせぇっ!」 取りつく島もない。 日光は嘆息して眼鏡のフレームを押さえると、倒れこんだままの一好に手を差し出した。 「大丈夫か、一好」 「大丈夫……と言いたいところだが、口の中ちょっと切ったな」 日光の手を借りて起き上がりながら、血の混じった唾を吐く。 「悪かった。こんな風になるとは思ってなかったもんだから」 「いいよ、日光も俺と大地のこと、気に掛けてくれてたんだろ?」 「まあそうなんだけど、とりあえずあっちの水道行くか? 口ん中、濯いだ方がいい」 「そうだな」 そう言って校舎裏から移動しながら、日光は自己嫌悪を覚えていた。 賀来日光と安遠一好、それから助信大地。この3人は筒貫高校1年6組のクラスメートで、つい最近までは仲のいい3人組としていつも一緒に行動してきた。 その関係が終わったのが、今月の初めのことである。大地が恋人に振られ、その恋人が一好と付き合い始めたのが原因だった。 大地の恋人だった梨本彩子が彼を振ったと聞いたときには日光も相当驚いたものだ。 大地と彩子はそのほんの数日前までは傍から見ていて鬱陶しいほど仲良くイチャついていて、彩子の大地を見る目は完全に恋する乙女のものだったし、大地だって自分にとっては初めての彼女だからと彩子をとても大事にしていた。それがある日突然、彩子が一好のことを好きになってしまったから別れて欲しいと言い出し、そして一好もその彩子を受け入れたという。なにせ大地を振るその場に一好を連れて現れ、今日からこの人と付き合うことにすると宣誓したというのだから、その話は確かなのだろう。当然大地は激昂したし、日光もその人間関係の変化に納得は出来なかった。 高校で知り合い仲良くなった大地と違い、日光と一好は中学時代からの付き合いである。中学一年の春に日光がこの筒貫町に引っ越してきて、それ以来の友人関係なのだが、一好がそんな風に友達の恋人を奪うような性質でないことを日光はよく知っている。 (何か事情があるのだろう) そう思ったから日光はこの件に関して、一好には一般論以上の苦言は呈さなかったし、大地に対しても必要以上の肩入れはしなかった。 肩入れはしなかった、が、大地に対して一好から何か事情の説明に近い何かがあってもいいだろうと思い――というよりはむしろギスギスした二人の間に挟まれ続けることに限界の悲鳴を上げて、二人で話し合えるようにと本日の場をセッティングしたのである。もっともそれは、一好にとっても大地にとっても奇襲的な、事情説明一切なしの不意打ちセッティングではあったのだが。 しかし結局、その結果はこの有様である。 一好は大地に対してただ一言「すまん」と言ったきり押し黙って何も話さず、大地は大地で恋人を横から掠め取られた苛立ちを押さえきれず――日光の行為は、なにか決定的な破綻を後押ししてしまっただけのような結果になってしまった。 「なぁ」 校舎裏から少し離れて、部活棟の近くにある水道。 春休みの校内には部活で登校している生徒以外の影はなく、今が練習時間中であろうことを思えばこの部活棟近くの水道にも人影はなかった。遠くグラウンドの辺りから野球部やサッカー部の練習に勤しむ掛け声なんかは聞こえてくるが、それ以外は静かなものである。 「なぁ一好、真面目な話、なんでまた梨本の告白なんてOKしたわけ?」 「なんだよ、やぶらぼうに」 水道で口を濯いでいた一好も顔を上げる。 「今まで何にも聞いてこなかった癖に」 「いや、確かにそうなんだけど。今までも何か事情があるんだろうなーくらいには思ってたさ。お前が仲のいい友達の彼女横取りするなんてあり得ないって思ってたから」 「そうかい、ありがとよ」 「実際お前らが付き合い始めて一月近く経つけど、お前と梨本がイチャついてるようなところも見たことないし……まぁ大地は俺らの見てないところでヌプヌプしてるんだろうなんて想像して怒り狂ってたが」 「……」 「それにお前、三好ちゃんのことがあるから放課後は殆ど毎日まっすぐ家に帰ってたはずだろ?」 「……まーな」 三好というのは一好の妹のことだ。彼の家は家庭環境が特殊で、一好はたった一人の肉親である三好のことを猫可愛がりしているのだ。 「学校でイチャついてるわけでもない、かといって放課後にどうこうしている様子も無い。となれば何か事情があるんだろうとは思うけど、それってそんなに隠さなきゃなんないようなことなのか?」 「別に、事情なんか無いさ」 「そう思えないから今日の場をセッティングしてみたんだが」 「その気持ちだけもらっとくよ」 「一好……」 ハァッ、と肩を落とす。一好は真面目だ。真面目で頑固なのだ。恐らくその何かの事情とやらについては一切口を噤むことを決意してしまったのだろう。こうなるともう、絶対に彼は口を割らない。 「まぁ……言えないっていうならそれでもいいけど、確かに俺はお前らの三角形の外にいる人間ではあるわけだし」 「……」 「でもお前、大地とのことはどうする気だ? 俺と大地は文系志望だけど、お前理系志望だろ? 2年になったら間違いなくクラスが分かれる。このまま喧嘩別れで無かったことにでもする気か?」 日光は言いながら一好の様子を窺っていたが、彼が何事か口を開くことはなかった。その様子に一好の頑固一徹スイッチが完全に入ってしまっていることを改めて確認する。 「まあ、それも仕方ないか。どうせ喧嘩別れになるなら、今みたいなクラス替え目前のタイミングっていうのは返ってよかったのかもな」 「……日光、お前はそれでいいのか?」 「なに言ってるんだ、それはこっちの台詞だろ? お前こそあれで本当にいいのかよ」 「仕方ないだろ。言えないものは言えない。だから」 「……」 やっぱり何か、言えない事情があるんじゃないか。 日光は苦笑して「別にいいけどな」と言った。 「一好、口の中、大丈夫か?」 「え? ああ、もう血も止まったみたいだし」 「よし、じゃあ折角の春休みなんだしこれからどっか遊びに行こうぜ。時間もちょうどいいから駅前のマックで適当になんか摘んでさ」 日光は勤めて明るくそう提案したが、けれど一好は困ったような笑顔を浮かべて首を横に振った。 「なんか用事でもあるのか?」 「いや、ないけど。流石にそんな気分じゃないな」 「そんな気分じゃないからこそ遊びに行くんだろ。気晴らしだよ」 「いや、遠慮しとくわ。今日は大地に殴られたけど、あれは結局俺が悪いんだ。だからそのことは反省したい。忘れちゃ駄目なんだと思う」 真面目腐って語る一好である。日光としては呆れる他ない。 「そんな硬く考えなくてもいいと思うけどな……」 「日光、人を殴ったら殴られたほうは当然だけど、殴った方も痛いんだぜ?」 「青春小説の読みすぎ」 「はは、そうかもな」 一好は笑って踵を返した。日光に背を向けて歩き出す。 「おい、本当に帰っちゃうわけ?」 「ああ、悪いな。本当は今日、これから妹の制服を買いに行く約束してるんだ」 「三好ちゃんの? ああ、そういや来月からうちの高校なんだっけ」 「そういうことだ――ああ、なんならお前も来てもいいぜ。三好だって来月からはまたお前の後輩なんだし、迷惑かけることもあるだろ」 「あの子が人に迷惑掛けるっていうのも想像しにくいんだけどな……まぁそういう約束があるなら仕方ないか。まあ兄妹水入らずで仲良くやるとよいよ」 「来ないのか?」 「遠慮しとくわ。三好ちゃんとそんなに親しいわけでもないし」 「だから親しくしてもらいたいんじゃないか。そうすれば俺が居なくても面倒をお前に押し付けられる」 「お前ね」 「冗談だ、冗談」 一好はそう言って楽しげに笑った。 だが直後、ふと真面目な顔になる。 「でもさ、日光。もし本当に、俺があの子の傍にいてやれなくて、そのときお前が傍にいたなら……そのときはお前が俺の代わりに面倒みてやってくれよな?」 「なんだい、藪から棒に」 「お前のことをさ、友達だと思ってるから、こういうことだって頼みたいって思うんだよ」 「青春小説の読みすぎ」 「そうかもな」 日光の台詞への切り替えしは、つい先ほどのやり取りと全く同じ字面だったが、それを言う一好の表情はまるで違った。 本当に真面目に、一好はそう日光に頼んでいた。 「……まぁ、青春小説読みすぎのお前がそこまで言うなら頼まれてやらんこともないが、でもそんなのはお前がちゃんと四六時中あの子についててやればいいことじゃないか」 「はは、そうだな。そりゃそうだ」 「ん、だからまあ、しっかりやりなさい、お兄さん」 「おう、しっかりやってくるよ。未来の義弟よ」 「誰が未来の義弟だ」 「お前になら三好をやってもいいんだけどなぁ」 一好は肩をすくめて笑い、今度こそ歩き出す。 「そんじゃな」 「ああ、また近いうちに会おう。そのときはちゃんと遊ぼうぜ」 「OKだ。そのときは三好とも遊んでやってくれ」 「……ま、嫌われない程度に仲良くしよう」 「それで十分だよ」 一好の背中が遠ざかる。 日光はそれを見送るでもなく見送りながら、ポケットの中から取り出した携帯を弄り始めた。 時間を確認するだにちょうどお昼の12時前、一好はもう行ってしまったし、折角だから大分前に去ってしまった大地にメールでもしようかと思う。喧嘩別れになってしまった一好のフォローもしてやらなければと思ったのもあるが、例えマックでも一人で入るよりは二人で入るほうがまだ健全という気がしたからだ。 そうして大地へのメールを打ちながら、もし一好が大地や自分に隠している事情とやらが明らかになることがあったとして、そうなったとき自分たち3人はまた再び以前のように仲良くやれることがあるのだろうか、と考える。 その想像の答えを弾き出すのは難しく、日光のメールを打つ手はいつの間にか止まってしまっていた。そして止まってしまっていた指先に気づいて再びメールを打ち始めるが、そのときには「今の状況は仕方ない。時がなんとかしてくれるのを待とう」と開き直るような心境になっていた。 しかし結局のところ、安遠一好と助信大地、そして賀来日光の3人の少年たちが並んで笑いあい、一緒に遊ぶというような機会が訪れることは、この日を境に永久になくなってしまったのであった。 何故ならその翌日の早朝、筒貫町の中央を割るように流れる弦川のほとりで、安遠一好が首から上だけという変わり果てた姿で発見されたからである。 4月1日、それはつまりエイプリルフールというやつで、まるで冗談のような出来事であったけれど、その日に日本中で言われた数々の嘘の中にまぎれることなく、安遠一好という少年の死はまるで冗談のような真実として、賀来日光の胸に突き刺さったのであった。 |