第一章 気の早い蝉時雨 【1】 |
月明かりが煌々とした、いい月夜だった。 けれど地上にその月夜を見上げ、楽しむ風情をもった人間がどれほどいるだろうか。 (少なくとも、俺の視界の中にはいねぇな) 県立筒貫高校に通う2年生、藤原博人はコンビニ前にタムロする仲間たちを眺めながら、そんなことを思う。とはいえその博人にしたって、たまたま月が目に入ったからそんなことを思っただけで、それが視界に入りさえしなければそんなこと思いもしなかっただろう。 「――でっさぁ、そんときのタカちゃんライザーどもにマジびびっててぇ」 「あはははは! マジでぇ!?」 「マジマジ! いっつもチョーアッパー系で『オレ、こないだフラット寸前まで上がり切ったぜぇ?』とかゆってたくせにナニソレって感じで!」 「あは、あははは! すっげぇウケるんですけどぉー!」 仲間たちはどうでもいい下らない話題でよくもそこまで、というくらいに笑い転げていた。 しかしまぁそれも悪くは無いと思う。他人にとっては下らない話題だろうと、それが笑える当人たちにとってみれば、それは本当に愉快で楽しい話題なのだ。同じ法制下で暮らしていても興味の対象が違えば倫理の基準も異なってしまうのが人間である。 彼らはタカちゃんという誰かのことを物笑いの種にしていて面白いのだろうが、その誰かを知らない博人にとってはそんな話題は別に面白くも何ともない。どころか、ああして露骨に人の陰口を叩いて爆笑しているという姿には不愉快感さえ覚える。けれど、博人が興味を持ち、仲間の何人かには同志もいるドラッグセックスの話題になれば、いくら博人とその同志がその話題を好んだにしても、セックスにドラッグを持ち込むことを善しとしない仲間の大半には不愉快さを与えるだろうと分かるのだ。 だから博人はそんな彼らを生ぬるい視線で眺めながら、コンビニで買ったチューハイをくぃっと煽った。 「ヒーロちゃん! つまんなそぉーにしてんねぇ!」 「あー? んだよ、キーくんかよぉ」 声を掛けられて見上げれば、そこには金髪のいかにも馬鹿そうな面をした少年が立っていた。キーくんという愛称で呼ばれているが、その愛称以外のことは殆ど知らない。強いてあげるなら、博人と同じくドラッグを使ったセックスに傾倒しているくらいだろう。 「ご挨拶だなぁ、てめーは。いい月夜だってのにサ」 にやにやと笑って彼はそんなことを言う。しかしその言葉を少しばかり博人の気を引いた。この馬鹿に月を気にするような感性があるとは思わなかったからだ。 「んまぁ……いい月夜だってのは認めるけどな」 「は? ああ、月夜ね? そこにリアクションが来るとは思わなかったわ! なんだよなんだよー、ヒロちゃん今日はちょっぴりセンチメンタル系? あははー、キモいですから!」 「っせぇよボケッ!」 「まーまー、そう怒んない怒んない。そんなセンチメンタルジャーニーなヒロちゃんにちょっとばかしエキセントリックなお話もってきたからサ」 「ハァ?」 「いーからいーから、ちょっと耳かしてちょんまげ」 「ちょんまげ!?」 古すぎですから! と仰け反る博人に金髪の少年は「いーからいーから」と言って、博人のピアスを掴んで強引にその耳を引っ張る。 「いでっ!? くそ、てめキー坊! いてぇぞ!」 「だからもーちょっと静かにしてろよってぇ。マジおもろ系の話もってきたんだからよー」 「ったくぅ、なんなんだよぉ……」 恨めしげに少年を睨みつける博人だが、少年が彼の耳元で囁いた言葉に目の色が変わった。 「え、うっそ、マジで?」 「マジマジ。どうよ、ちょっとおもしろそーじゃない?」 「確かにちょっとおもろ系だなそいつは……」 「行く?」 「イクイク、イっちゃう!」 「きもっ!」 「OK、今の俺はその無礼な発言も寛大なる御心で許すぜ。で、場所どこよ」 「まーまー、案内するから落ち着けって」 言って歩き出す少年に、博人も立ち上がってその後を追うように歩き出す。 そこに後ろからコンビニでたむろってる仲間たちの声が掛かった。 「あっれ、ヒロちゃんとキーくん、もー帰んの?」 「おー。悪いけどちょっと用事できたんで行って来るわ」 「なになに、遊び? なんか面白い話でもあんの?」 「ひ・み・ちゅー」 「きもっ!」 「はっはっは、悪いなテメーら。ちょっと具合見て面白そうだったら呼んでやっから」 「へいへい、そんじゃいってらー」 「おー」 そう言い残して博人と金髪の少年は夜の街へ消えていった。6月はじめのある晩のことである。 |
安遠一好の死から二ヶ月と半月ほどの時が過ぎ、今は6月の半ば――。 賀来日光は走っていた。 全速力に近い猛ダッシュである。私鉄線の筒貫駅から筒貫高校に向かう商店街は筒高生にとっては通学路に当たるはずなのに、そこを行く生徒の姿は殆ど無い。 それというのも当然の話で、時間が時間だからだ。あと数分もしない内に予鈴が鳴って学校の校門は閉ざされるだろう。しかし今の日光のいる場所からでは学校までどんなに急いでも10分は掛かってしまう。 ならばいっそここは遅刻と諦めて歩いてしまってもいいだろうが、筒貫高校では朝のショートホームルームが無いため、一時間目の授業開始に間に合えば、厳密には遅刻と取られないという慣例がある。予鈴で校門は閉ざされてしまうけれども、その気になれば学校の裏門や通用門などからも出入りは出来るし、大丈夫、まだ諦めるような時間じゃないのである。 そんなわけで賀来日光は走っていたのだった。 「くそっ、くそっ――! こんなっ、ことならっ、深夜番組なんてっ――!」 そしてそれが朝寝坊の理由だったりする。 昨夜の深夜番組はここ最近世間を賑わせている謎の怪生物の特集をやっていたのだ。 曰く人の頭を持つ鳥であるとか、車ほどの大きさもある犬であるとか、沼の底から現れる馬のような何かであるとか……その殆どは眉唾ものの話だと日光は思ったが、そのうちの一つに筒貫町からそう離れてもいない所での目撃談があって興味を引かれたのである。 それは車に跳ねられても死なない狼のような犬なのだそうだ。その犬は国道を100km近いスピードで飛ばしていた車に跳ねられ、車に傷がつかなかったかどうか、思わず降りて確認しようとしたドライバーに襲い掛かったのだそうだ。ドライバーはあわやというところで車内に逃げ込み九死に一生を得たというが、運転席のドアの外側には獣の爪のようなもので無残に引き裂かれた傷跡がつけられていたという。そして実際にその傷跡の映像も流されたため、スタジオの皆さんも視聴者の皆さんもその恐怖に震え上がったのだった。鉄板すら引き裂くような強靭な爪と四肢を持つ動物に人間が襲われたら……そんなもの、死ぬに決まっている。 その震え上がった視聴者の中には日光もいたわけで、そういった意味では十分以上に深夜番組を楽しんだことにはなるのだろうが、そのおかげで寝坊して遅刻しそうになっている現状を思った途端、その深夜番組に対して毒づいてしまうというのもある意味で人間という生物の業と言えなくもない。 カレンダーの示す暦は6月の半ば、大気は夏の気配を漂わせ始め、湿気に霞む空の青さは真冬のそれと比べれば随分と淡く色あせている。 気の早い蝉が鳴き始めるような時節にあって、いかに日も上りきらない朝のうちとはいえこんな風に全力ダッシュをしていれば嫌がおうにも汗をかく。シャツの下に着込んだ肌着は既にべったりと汗を含んで不快だし、身体の内側から生まれる熱も手伝って、呼吸をすれば吸い込む空気も吐き出す空気も喉を焼く。しかも今朝は件の寝坊で朝食を抜いているからパワーが出ない。 (いかん、これは死ねるかもしれん) 生粋の帰宅部である日光だから、瞬発力はともかくとして持久力と言われると全く自信が無い。家から学校までは3km程度とさほど離れているわけではないが、それはのんびり歩くならの話だ。その距離を走り詰めともなると次第に視界が白んでくる。意識的なものもそうだが、眼鏡が汗に曇り始めているのだった。 微妙に朦朧とし始めたランニングドランカーな日光の耳に、チリンチリンと自転車の鳴らすベルの音が飛び込んできたのはそんなときだった。 日光は朦朧としたまま半歩道を開け、自転車をやり過ごそうとする。 しかしその自転車は日光の前に回りこむとブレーキを掛けて停止した。 「日光、乗れっ」 「あ……大地か!?」 「早くしろよ、このままじゃ遅刻だぞ!」 滑り込んできたのは結局2年になっても同じクラスになった助信大地だった。 あれは4月、新学期の初めのこと。同じ文系志望で成績も同程度とあって、同じクラスになる可能性はそこそこあったのだが、実際にそうなってみればお互いの表情に浮かんだのは苦笑でしかなかったのを思い出す。 3月の終わりに日光は、当時喧嘩中だった助信大地と安遠一好を無理やり引き合わせて話し合いの機会を持たせようとしたことがあった。その機会というのは結局失敗で、その日のうちに一好が死んでしまったこともあって、日光は大地と一好に最悪の別れ方をさせてしまったと悔いたものである。実際、それから日光と大地は一好の葬式で顔を合わせたが、お互いに言葉もなかった。 だからこその苦笑で、新学期も初めのうちは二人ともギクシャクとぎこちないものがあったが、それでもそうした不自然さというのだって、時の力は徐々にだが確実にぬぐってくれる。今の二人は一好がまだ生きていて、大地と一好とが揉め始める前と同じに、もしかしたらそれ以上に仲良くもなっている。 だから――、 「わ、悪い大地、恩に着る!」 「昼休み、コーヒーおごれよ?」 「そんくらいで済むなら安いもんだ」 「よっし、聞いたぞ! そんじゃ飛ばすからしっかり掴まってろよな」 日光が自転車の後輪の軸から飛び出した二人乗り用のバーに足を掛け、大地の肩に手を置く。 そして大地はそれを確認すると、力強くペダルを漕ぎ出した。 今の位置からなら学校まで自転車で二人乗りしても2分と掛からないだろう。ペダルを漕ぐ大地の脚力によって生まれる風を感じながら、日光はようやく一息ついたのだった。 |
結局日光と大地が教室に滑り込んだのはかなりギリギリの時間帯だった。具体的には予鈴も8分過ぎて、授業開始の2分前である。 筒貫高校では予鈴と同時に正門を閉めてしまうのは先ほども述べたが、その際正門には風紀指導の教員が立つという慣習があるのだ。日光と大地はその風紀指導をやり過ごすために遠回りして学校の裏門に向かい、そこから駐輪場まで自転車を運んで、そしてまた教室への全力ダッシュとなったわけだが、しかも二人の所属する2年5組の教室は校舎の4階という立地である。フロア4つ分の階段を駆け抜けるとなると、これはやはりなかなかしんどい。 そんなわけで二人が連れ立って教室に入ったとき、日光と大地は肩で息をするほどに疲れていた。 「おー、スケさんカクさんコンビ、ギリギリセーフー」 「危なかったなぁ、一時間目数学の金城だし、遅刻だったらかなりやばかったぞぉ?」 「ていうか日光くん眼鏡曇りすぎ! あははは!」 二人を迎えるクラスメートたちのそんな声。 お疲れの日光と大地はそんな声に手を上げるだけで応えて、ゾンビのようにゆらゆらとそれぞれの席へ……、 「日光、昼のコーヒー、忘れんなよ」 「わかってるよ……ああ、マジしんど」 それぞれの席へ向かう。 そして日光はそのまま机の上に突っ伏した。体力的まだ余裕のあった大地は近所の席と友達と話し始めたようだが、家を出て大地に拾われるまで走り詰めだった日光にはそんな余力はとてもない。 けれど、そんな風に見るからにいっぱいいっぱいな日光を見ても面白がって話しかけてくるのだから、クラスメートというのは時としてこの上なく厄介だ。 「やー、賀来さんお疲れっすね」 「ていうか凄い汗ぐっしょりじゃない。ジャージにでも着替えてきたら?」 ぐったりと突っ伏したまま視線を上げれば、隣の席の佐々木麻耶とその友達、物部静香が苦笑しながら日光を見下ろしている。 後者の提案は市子の台詞だが、ジャージに着替えようにも男子更衣室は一階だ。そこまで降りてまた階段を上って来いというのか。 「疲れ切ったこの俺に!」 「は?」 いきなりその部分だけを言ったから麻耶も静香も訳が分からずきょとんとしている。 「……いや、ごめん。疲れてるから。一階まで降りてまた戻ってくるとかマジ無理」 「ホント疲れてるみたいね……まぁ時間もないし着替えは無理か」 「でもその汗はないよぉ。賀来さん、デオドラントとか持ってないの?」 「え、ひょっとして俺汗臭い? 匂う?」 年頃の少年だけに臭いと思われたならちょっとショックだ。 「あー、あはは、ほらあたし、静香っちと違って匂いフェチとかじゃないっすから」 「麻耶、さり気に人を変態に貶めないでくれるかしら。あ、それともあれ? 自分も罵って欲しいっていう意思表示?」 人差し指を下唇に当ててクツリと嫣然とした笑みを浮かべる静香、麻耶は冷や汗を垂らしながら、「ももも、もちろん冗談っすよぉ!」と慌てて飛びのく。 大人っぽいというよりはむしろ艶やかな雰囲気を漂わせるS気質の静香と、子供っぽいというよりはそこはかとなく小賢しい感じのM気質の麻耶。二人のやり取りは天然でコメディのようなテイストがあって見ていて飽きないのだが、正直いまは疲れているのでどっか他所でやってくんないかなぁと思う。 嘆息する日光の眼前では飛びのいた麻耶を追い詰めた静香が、絡め取るように獲物の腰に手を回しながら首筋に鼻先を寄せ、 「あら、デオドラントが必要なのはむしろ麻耶の方なんじゃないの? ねぇあなた、匂うわよ? 香水程度じゃ誤魔化しきれない飢えた雌の匂いが――!」 「あ、や、ちょっと静香っち!?」 「いいえ、デオドラントなんかじゃ無理ねこれは。日光くん、ちょっとお手洗いにでも行って芳香剤を取ってきて頂戴な」 「ほ、芳香剤!?」 「くすくす……あなたのような便所女にはデオドラントなんて勿体無い。せいぜいブルーレットがお似合いよ!」 「お、置くだけー!?」 そんなやり取りをしている。 ところでブルーレットは既に芳香剤ですらないのではと思う日光だが、その辺り静香はどう考えているのだろう。疑問に思うが口にはしなかった。この二人のコメディに巻き込まれるのはごめんだ、と机の上に再び突っ伏して聞こえない振りを決め込む。 (まぁこの二人のことはほっとくにしても……) 突っ伏しながら、ちらりと黒板の上に掛かっている時計に視線を向けた。時計の針は既に始業時間を5分も過ぎた時刻を示している。なのに一時間目の数学を担当する金城教諭が未だ教室に姿を見せていないのだ。数学という担当科目が担当科目だけに数字、とりわけ時間に厳格な金城教諭にしては珍しいことだと思う。 そして、 (チクショウ、先生が遅刻だって知ってたら、俺だってもうちょっと、多少は余裕を持って登校できたものを……) 内心でそんな本音を漏らす。 が、教室のドアがガラリと音を立てて開いたのはちょうどそのタイミングだった。 「おーい、お前ら遊んでないで席つけー。つーか他のクラスの授業はもう始まってんだから静かにせぇよ」 砕けた口調で出席簿をベシベシと叩きながら教室に入ってきたのは、数学の金城ではなくクラス担任の松坂教諭であった。担当科目は古文漢文であり、日光的主観では数学とは対極に位置する科目の担当教師である。 「あれ、先生ー。一時間目数学っすよ。古文じゃねーっす」 「わーかってるよ、んなこたぁ。その辺も説明するから、とにかく席つけ」 「はーい」 がたがたとクラスメートたちが各々の席に着席する。日光も億劫ながら身体を起こした。 それを確認するように教室内を見回した松坂教諭は出席簿を開いてチェックを入れていく。 「とりあえず今日の欠席は……と、例によって例にごとくの藤原だけか。まぁ藤原はご家族から連絡もらってるからよしとして……他は欠席なしだな。おうおう、暑いのにご苦労さんだな、お前らも」 そう言って呆れたような目で生徒たちを見るのだからこの男も侮れない。生徒たちもみんな苦笑している。 「ま、それはそれとして連絡事項だ、連絡事項。一時間目の数学担当の金城先生だが、ご家庭の事情とやらで今日は欠勤ということになっている。つーわけでお前らの一時間目は自習だ」 「マジでぇ!?」 「ラッキー!」 「ええい、はしゃぐなはしゃぐな。他のクラスは授業中って言ったろうが。で、まぁなにぶん急なことというのもあって、その肝心な自習内容について俺は言付かってない」 「え、じゃあ完全フリータイム?」 「アホ抜かせ、小僧ども。えーと、どうすっかな……お、葉山、ちょっと教科書貸せ」 一番前の席に座っていた眼鏡っこの葉山文香から数学の教科書を取り上げる松坂教諭。 「えーと、お前らの数学いまどこら辺まで進んでるんだ?」 「58ページくらいまでです」 松坂の問いに楚々とした声音で答える文香。 その発言に教室中の視線が入学以来最前列の席に腰を落ち着ける小柄な秀才少女の背中に集中する。何故なら58ページの範囲は先週の授業でとっくに終わっているのだ。 「よし、そんじゃあとりあえう55ページと56ページにあるまとめの問題集あたりが妥当か。はい、お前ら全員聞けー。今日の自習は55ページからの問題な。ちゃんとやっとけよー」 そう言い残して何の疑いを抱くことも無く松坂教諭は教室を後にする。 ちなみに55、56ページの問題集も先週の授業時間内で答え合わせと解説がきっちり行われていた。 担任が去り静まり返る教室の中で、最前列に座る文香がゆっくりと背後、つまりはクラスメートたちを振り返り、 「……!」 無言のまま、グッと親指を立てる。 瞬間、教室が爆発した。 「うおー!」 「グッジョブ! グッジョブ葉山!」 「さすが文香! 私たちに出来ないことを平然とやってのける!」 「そこに痺れるあこが(ry」 スタンディングオベーションで拍手をする馬鹿までいる。 かくして筒貫高校2年5組の面々には完全フリータイムの自習時間が約束されたわけだが、担任が去ったことで安心して机に突っ伏した日光は、(ノリがいいクラスだよなぁ)と流石に少しだけ呆れたのだった。 |