ああ、学園一可愛い性格ブスな君よ、ご機嫌麗しゅう?

#01 ≪エゴスパーキン≫


 美人かと問われれば、そいつは確かに文句なしの美人なのだ。
 透けるような白い肌、肌と同じに白い髪。アルビノだかアルピノだかアルピーヌルノーだかという先天性の病気の一種だという話だが、彼女のそれは色素系に異常が出ているだけで症状としては軽度なものらしい。詳しいところは寡聞にして知らないが、サンヘイトシンドロームとかそういうものでもないらしい。
 そうだ、確かに彼女は美しい。というか可愛い。
 あまり高くない身長は一般には小柄と言うべきだろう。全体に小作りな印象を与える顔の造作の中で、俗的表現で言うピーナッツ型の瞳が可愛らしい。
 そんな少女は五月も中頃の水曜日の放課後、僕を体育館に呼び出した。その手法は古典的にも僕の靴箱に投函された置手紙。その手紙は、青少年的表現を用いるならば、もしかしたらラブレターとかそんな言い表し方も出来たかもしれない。
 しかし僕はその手紙の便箋に記された差出人の名前を見て戦慄した。
 記された名前は永塚伊子(ながつか いこ)――彼女は僕の一つ年下の後輩で、今年の新入生きっての公害とさえ呼ばれている……ああ、つまりは不良少女だったのである。
 美人かと問われれば、永塚伊子は確かに文句なしの美人だ。
 異彩を放つ白い髪。頭に巻いたバンダナは彼女のトレードマークだが、実は紫外線吸収という実際的な意味があるらしいことは、割と知れた事実だ。
 美白エステにさえ喧嘩上等な白い肌。あちこちに細かい傷がついているとかいないとかいう話しだが、生憎この距離からでは窺い知ることは出来ない。まして、窺い知ることができる距離にまで近づこうとも思わない、獅子の懐でタップダンスを踊る勇気はないのである。
 風に吹かれて舞う髪の間から覗く小さな耳、そこに穿たれた四連ピアス。全体的に小作りな造詣の顔立ちの中で、大きく強い意志を感じさせるピーナッツ型の瞳は、常ならば学園教師や優等生たちを見下すために使われる――そしてその眼光が鋭さを増すとき、その細腕からは信じられない一撃必殺の拳を見つけた隙に叩き込むのだ。
 御蔵学園のアンタッチャブル。
 麗しのプリティデビル。
 学園一可愛い性格ブス。
 入学から僅か一月にしてそんな仰々しい仇名をつけられる恐怖の一年生、それが永塚伊子という少女だ。
 そんな相手から放課後に体育館裏に呼び出されたのだから、正直僕はびびりまくりで今にも腰が抜けそうにさえなっていた。友人連中は「そんな呼び出し無視しちまえ!」「馬鹿逃げるな! 報復は六倍半だぞ!?」「行ったら報復を待つまでも無く死ぬって!」「これ持ってけ、スタンガン。いいか、急所を一撃だ」――まぁそんな感じでイロイロ無責任に送り出してくれたが、その目は例外なく絶望的な生還率の任務に赴く戦友を見る「あいつ……無茶しやがって」的な眼差しであった。
 そんなわけで今僕の懐には80万ボルトの電撃がクールなスタンガンが収まっている。しかしこいつを使う隙があるかどうかは激しく疑問だ。やつは……麗しのプリティデビルは油断の無い目つきで僕のことを睨み付けている。
 ああ、ああ、今になって思い出されるのは、呼び出しておいて三十分も遅刻してきた永塚が僕に言った台詞だ。
『よく来たわね……びびって逃げ出しただろうって、思ってたけど』
 それはつまりびびって逃げ出すようなことがこれから起こるということだ。勘弁して頂きたいものである。
 僕の息子は状況を正確に把握しているらしく豪快に勃起していた。人間に限らず生命の危機に晒された生物というのは、自らの遺伝子を次の世代に伝えるべく生存本能がナニしてスパークするという与太話はどこぞのエロス漫画で得た知識だが、それを十六歳の若さで実感する羽目になるとは思っていなかった。
 それでも僕は前かがみになったりせずに背筋を伸ばして立つ。ズボンのポケットに手を突っ込んで必死に指を突っ張っているのはご愛嬌だ。この状況で勃起していることが悟られたら、リアルに死亡率が跳ね上がる。
 がっくんがっくん震えそうな膝を死に際の精神力で叱咤して、僕は永塚と正面から睨み合った。
 永塚は先の宣戦布告としか受け取れない台詞以降は一言も発さず、ただ僕の正面で不動の構え。風に踊る彼女の白髪は場違いに美しかったけど、伏せた顔では表情が見えない。や、正直あまり見たくもないのだけど。
 ――なんて思っていたその時。
 その彼女が、顔を上げた。
 永塚伊子の視線は真っ直ぐ僕の顔を捉えている。色素の足りない紅い目、そこに宿る強い意思、強者の眼差し。彼女はその瞳のまま僕を見つめ、一歩を踏み出した。もちろん、こちらに向かって。
「っ」
 思わず身構えそうになる自分を押さえつける。
 永塚はそのまま僕に向かって二歩を、三歩を踏み出して間合いを詰めてくる。
 ズボンのポケットに押し込んだスタンガンを指先で確認、いつでも抜き出せるように心構えを作るが、果たしてそれを繰り出すだけの隙を彼女は見せるだろうか。
 永塚が僕に向かって手を伸ばしてきた。
 まずい、そう思ってスタンガンに指を掛け、ポケットから引っ張り出そうと……けれど、それより早く永塚は僕の胸倉を掴んで引き寄せてきた。
「ぅぐっ!?」
 引き寄せられた僕と、引き寄せた永塚の顔の距離はもう息も掛かりそうに近づいて、初めて至近距離で見る彼女の顔は瞳の赤さと同じくらい紅潮していたことに、そのときの僕は気づけなかった。気づけるだけの余裕がなかった。その紅い瞳も潤んでいたのに、僕はそれにさえ気づくことができなかった。
 あとになってそれらのことに気づけるだけの洞察力……いや、それよりも冷静さだ。それを持っていなかったことが僕と彼女の最大の喜劇だったんだと、僕は知ることになる。
「来栖、直巳――」
 額と額を突き合わせる距離で彼女は僕の名前を呼んだ。
 僕の胸倉を掴む彼女の左手。僕は近すぎる正面から睨み付けてくる永塚の瞳の強さに耐え切れず、思わず視線を逸らした。逸らしてしまったから気がついた。胸倉を掴んでいない、つまりは未だ自由なままの右手の拳が、堅く堅く握り締められていることに。
 僕は迷わずポケットからスタンガンを引き抜いた。おかげで片手の指から解放された息子の暴走を止めることが出来ず、股間がテントを張ってしまうけれど、それを気遣うだけの余裕は無い。
 先手必勝。
 僕はスタンガンを麗しのプリティデビルこと永塚伊子のわき腹に押し当てようと右手を閃かせる。
 しかし――。
 それよりも更に早く、永塚の無慈悲な一撃は放たれてしまった。動き始めてしまったこの右手は、最早抑えられないというのに!
「来栖、直巳……センパイ。その、つまり――あたし、あんたに惚れちゃったんだっ! ……だから、えと、あたしと……その、付き合っ――キャン!?」
 彼女の言葉の意味を理解しようとするだけの余裕は、そのときの僕にはなかったのだろう。
 現に永塚のその台詞が終わるより早く、彼女のわき腹に押し当てたスタンガンのスイッチをオンにしてしまったのだから、そのとき僕が冷静でなくて余裕も無かったのだろうことに疑いは無い。
 八十万ボルトの電気ショックに意識を手放した永塚の小さな身体が僕の胸に倒れこんでくる。白い肌、華奢な肩、小さくて白くて軽い……どんな仰々しい仇名で呼ばれようと、それは確かに少女の肉体だった。
 僕はまるでそうするのが当然のように意識を手放した永塚を抱きとめる。自分でスタンガンを食らわせといて、その身体を抱きとめているのだからなんとも世話の無い話だ。
 しかしそのときの僕はこれ以上は無いくらい呆然としていた。
 彼女の身体を抱きとめて、それが少女の身体であると知って……つまり、永塚伊子という学園のアンタッチャブルも年相応の少女であると認識のバイパスが結ばれてしまったとき、僕はつまり、そのときになってようやく気づいたのだ。
 永塚伊子という不良少女なこの後輩は、なぜだか知らないが僕に愛の告白(笑)をしてきて、来栖直巳という名のこの僕は、その一つ年下の女の子の告白に対して、スタンガンの一撃によって返事をしてしまったというどうしようもなく腐れた現実に、自ら陥ってしまったのだと、そのときようやく気づいたのである。
 ああ、右手に握り締めた凶悪な八十万ボルトが恨めしい。こんなものを持っていなかったら分不相応に自衛しようなんて考えず、流されるがままに永塚の告白を受けて、どう断るものかとそれなりに真剣に、しかしそれでも安全に悩むことが出来たはずだ。
 しかし現実、僕は自分に告白してきた女の子にスタンガンを喰らわせたド外道であり、これからどうしたものかと身の危険に震えている。
 ほとんど無意識に永塚の小さな身体を抱きしめ、僕は長く深いため息と共に、素直な心情を吐露した。
「……ど、どうしよう」
 まさしく事態は「うはwwテラヤバスwww」の一言に尽きるのであった。

※※※

 何かの失敗を犯したなら、そしてそれを悔いているのなら、ならばその後すべきことというのは、その失敗を取り返すだけの努力だ――、と、これは僕の父親の座右の銘だ。座右の銘というには少し長すぎる気がしないでもないが、言っていることは至極もっともである。
 過ぎ行く春の足音が聞こえそうな五月の夕暮れ、放課後の体育館裏に立ち尽くして、スタンガンを食らわせて気絶させてしまった少女の肢体を前に僕は呆然としてしまったものだが、冷静さを取り戻してみれば自分のすべきことはすぐに見えてきた。
 僕の胸の中で気を失っている彼女、永塚伊子の身体を所謂≪お姫様抱っこ≫で抱き上げると、そのまま学園の保健室に向かう。道中他人に見られる危険性はあったけれども、そんなことに頓着している余裕はない。抱き上げた永塚の身体は驚くほどで華奢で軽かったし、それに少女らしい柔らかさ、女の子特有の何ともいえない香りが鼻腔をくすぐって、僕の精神的余裕はそれだけガリガリと削ぎ取られていったからだ。ぶっちゃけクラクラする。
 こうしていると改めて気づかされる、御蔵学園のアンタッチャブルも、なんだかんだ言って女の子であるということに……。しかも今時手紙を出して相手を呼び出し、それでもって愛の告白をしてしまうんだから、絶滅種なまでに女の子だ。
 腕の中の小さな温もりを思う度、僕はなんだか可笑しさのようなものがこみ上げてくるのを感じる。頬が緩む感覚を嫌というほど感じる。けれどその一方、いくら年相応に女の子な感性を彼女が持っていたとして、それでも永塚伊子が今年度の一年女子の中で最悪な部類に入る不良少女であることも確かだし、そんな彼女の告白に対してスタンガンで返礼してしまった自分の未来について思考を及ばせてしまうと、頬が緩むというより頬が引きつる感覚を嫌過ぎるほど感じてもいた。
 今の僕はきっとあしゅら男爵。顔の右半分で微笑を浮かべ、左半分で慟哭している。そんな顔で気絶した女の子を抱えて学校の敷地内を歩いているんだから、下手すれば通報ものだ。あと、あしゅら男爵がなんだか分からないという人はググってみるといい。


 幸いにして誰に見咎められることもなく保健室にたどり着くことが出来た。
 だが問題は、たどり着いた保健室に養護の先生がいなかったということだ。鍵は開いていたし、先生の私物と思しきカバンも置きっぱなしになっていたことから、ちょっと席を外しているだけなんだろうとは分かる。
 とはいえ参ったな、どうしたものか……思わず頭を抱えて僕は――、いや、逆に考えるんだ。先生がいないせいで気絶した永塚を預けてトンズラ大作戦が出来なくなってしまったとか、そういう問題じゃない。先生がいないおかげで、本来あるべき追求(※なぜ永塚伊子が気絶するような事態になったのか等)を見事にスルー出来る――、そう考えるんだ。
 ……。
 いや、もちろんそれが現実逃避に過ぎないってことは分かってるんだけどね。
 無人の保健室に永塚を放り出して帰るわけにはいかない以上、彼女が目を覚ますか、或いは保険医の先生が戻ってくるまで道義上ここにいないといけないわけで、永塚が目を覚ますなり先生が戻ってくるなりすれば、どっちにしろ何故こんなことになったのか、という事情説明はしないわけにはいかないんだ。
 がっくりと内心で肩を落とす。実際に肩を落としては腕の中の永塚まで落としそうだからがっくりするのは心の中に留めておこう。とりあえずことの経緯に関する言い訳の草稿だけは、永塚が目を覚まさないうちに考えておかなくては。場合によっては保険医の先生をも身内に抱きこまなくてなるまい。
 僕は保健室の空きベッドに永塚を横たわらせると、肩までしっかり布団をかけて、そのベッドサイドのパイプ椅子に腰を下ろした。安物のパイプ椅子は体重を掛けただけでギシリと大きな音を立てたけれど、その音量でも永塚が目を覚ます気配がないというのは、果たして幸いなのかどうなのか……。
 よもや死んでるとかそんなことはないよな――? と、永塚の寝顔を凝視する。
 保健室のいかにも業務用というか、きっとこういう場所でしかお目にかかれないような粗末なつくりのパイプベッドの上で、永塚は死んだように眠っている。眠っているというか気絶している。
 というかそもそも凝視するまでもなく、清潔な白いシーツに包まれた胸がゆったりと上下していることから生きているのは明白なんだけれど、僕の心は妙に焦れてしまって、意識を手放したままの彼女の姿にどこか変化を、生きているという証を見つけたくてしょうがなくなっていた。
 僕はそっと手を伸ばす。
 伸ばした先は、永塚伊子、麗しのプリティデビルとか呼ばれている少女の頬だ。そして、恐る恐ると伸ばした指先に、滑らかな頬の感触、柔らかくて暖かい。
 その感触は、彼女が生きていることを確かに伝える。伝えてくれたのだから、僕の馬鹿らしい焦燥はそこで解消されて、僕は彼女の頬から手を離しているはずだった。マナー上もそうだ、寝ている女性に触れるなんて、そんなのは不躾の極みである。
 けれど、そんな当たり前の理屈とは別次元のところで僕は彼女の頬から手を離せなくなっていた。すべすべしていて、白くて、暖かい彼女の頬――、つまりそれは、彼女のいない暦イコール人生の僕にとっては、初めて触れた家族以外の女性の肌だったわけで……友人一同曰く≪助平オブMUTTSURI≫な僕は、その頬の感触を手放すことが、とても勿体無いことであるかのように思ってしまったのだ。
 いやいやいや、落ち着け僕、落ち着くんだ。この少女は永塚伊子、御蔵学園のアンタッチャブルの二つ名を持つ第一級不良少女だぞ? そんな少女に≪もっと触れていたい≫だなんて、幾らなんでもそいつは蛮勇というにも程があるんじゃなかろうか。
 理性はそう言って永塚の頬を撫でる指先を押し留めようとする。けれど本能の名を騙る僕の煩悩はとても自分に正直だった。僕の指先は一向に懲りず永塚の頬を撫でる。柔らかなラインを描く頬をすべり、頤の曲線を撫で、耳を触ってしまうのはさすがにセクシャルがハラスメンタブルなのでフライパス、彼女の最大の外見的特徴である、白い、細いその髪を梳った。
「……ん」
 ピクリ、と。
 眠る永塚の瞼が震えたのは唐突だった。
 それは覚醒、起床の気配。その瞬間僕は酷く狼狽してしまったのだけれど、よく考えるまでもなくいくら眠っているとはいえ、ああも顔面を撫で回していればそれは目覚めても当然なのである。
 たらり、と冷や汗が頬を伝う。そういえば永塚に触れるのに夢中で言い訳をなんにも考えていなかった。
 どうする、どうする僕――!?
 自慢じゃないが僕は嘘をついたり人を騙したり詭弁を弄したりするのは得意なほうだ。巧く誤魔化せられれば、もしかしたら今日の告白自体なかったことに出来るかもしれない。ここはやはりその場限りの嘘で凌ぐしかないか?
 いやしかし、永塚こんな僕に正面から愛の告白をしてくれたのだ。それにスタンガンで返礼し、なおかつそのことを誤魔化すために嘘をついてしまうというのは、果たしてどうなんだ? とはいえ正直に告白した場合、この御蔵学園のアンタッチャブルがどういう行動に出るか知れたものではない。
「――ん、ぅ……」
 永塚の目覚めの気配はますます顕著になる。もう時間が無い。すぐに判断を下して永塚が目覚めるまでに覚悟を決めなければ――!
 僕は――。

※※※

「目、覚めた?」
「――え?」
 僕が声を掛けると、うっすらと瞼を開きかけていた永塚は、急に覚醒したように目を開いた。
 驚いたような顔。
 彼女はシーツを跳ね飛ばすように身を起こして、僕の顔を凝視する。
 その驚いた顔に僕は何だか微笑ましいものと同時に、結構な罪悪感を感じてみたり。
「ああ、そんなに急に動かないほうがいい。身体は大丈夫? 気分が悪いとか、ない?」
「あ、え? ――いや、大丈夫……だけど……ここは?」
「ここは……保健室だな」
 その言葉に永塚はどうして自分が保健室なんかにいるか分からない、といった顔をする。それはまあ、そうだろうな、と僕も思う。
「君は僕と話している途中で……その、とある事情で気を失ったわけだけど、どこまで覚えてる? その、気を失う前のことだけど」
「え、とある事情って?」
「――それは後ほどまた解説します」
 思わず敬語になる僕。冷や汗が流れる。
 彼女には正々堂々本当のことを話すと決めたけど、ああ、やっぱり胸が痛い。心臓に悪い!
 永塚はそんな僕の心情など知らぬげに「ええっと……」と考え込み、ポンッと頬を染めた。もとの肌が白すぎるだけに、羞恥に顔を染め上げる様は可愛らしくもあるのだけど。
 あうあう、と口ごもる彼女に助け舟を出すわけではないが、またこちらから話を振った。
「……その、覚えてる?」
「そ、それをあたしに聞くの!?」
「そか……覚えてるか……。じゃあ、えっと」
 今度はこちらが口ごもる番。
 とはいえ黙っていても話が進むというわけではないので、僕はまさしくタイトロープダンサーな心境で次なる問いを、核心至る発した。
「じゃあ……なんで気を失ったかは、覚えてるかな?」
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。飲み込んでも飲み込んでも僕の口の中には嫌にしょっぱく感じられる唾が湧き出してくる。
 対する永塚はきょとんとしている。この様子だと、僕にスタンガンを食らわされたという悲劇は覚えていないのだろう。
「覚えてない……ていうか、分かんない」
「――そっか」
 僕は嘆息する。
 つまり、これで僕は僕の口から彼女に真実を告げなければならないことが確定したのだ。
 ……こんなことを考えるのはいかにも傲慢で、それでいて身勝手だとは分かっているけれど、出来るならば永塚には僕が彼女に何をしたのか、そのことを覚えていて欲しかったと、そう思う。もし彼女が僕の非道を覚えていてくれたなら、僕は自分の口から何を告げるでもなく彼女に罵倒され、それで殴られたとしても仕方ないと諦められたからだ。
 けれど現実、彼女は僕の非道を覚えておらず――というか知らず――、今も少しきょとんとしたような顔で僕を見ている。これは多分うぬぼれでもなんでもなく、彼女のそのきょとんとしたような顔、その瞳にはそれでもまだ、言うならば思慕とでも評すべき色合いが浮かんでいる。
 そのことが僕には辛い。
 彼女は「御蔵学園のアンタッチャブル」だとか「麗しのプリティデビル」だとかイロイロと陰口を叩かれている不良少女だけども、その実意外なほどに少女であるということを、僕は先の告白の件で思い知ってしまったからだ。
 彼女は不良だ。入学してから僅か一ヶ月だけど、その一ヶ月の間に二度の暴行事件を起こして、一度は停学にもなっている。そのどちらも彼女の外見に関して何事か彼女の不興を買うような発言をした人間に対してものだったらしい。そういう心無い言葉に対して暴力で応じてしまうという辺り、確かに彼女は不良だ、間違いない。
 けれど暴力という点を抜いて考えれば、人が持って生まれてしまった外見的特徴のような、言うなれば本人の努力でもどうにもならない点に関して悪し様な口を叩くというのは、それは確かに元の非は殴られた側にあるのだろうことも事実だ。
 僕は彼女のことを、永塚伊子という少女のことを知らない。人の口の乗った噂でしか知らない。永塚は中学時代から不良だったらしい。中学時代から何度と無く暴力事件を起こしていたらしい。義務教育期間中にも関わらず二桁に届きかける自宅謹慎を受けていたらしい。それらは全て人の口に乗った噂で、それらは確かに事実なのかもしれないけど、しかしそれらは全て結果だ。なぜ永塚が人を殴ったのか――僕の知る彼女に関しての噂というのは、その点について僕になにも教えてくれなかった。そして僕も知ろうとはしなかった。
 僕は彼女のことを、永塚伊子という少女のことを知らない。人の口の載った、彼女のことを悪し様に罵る噂でしか知らない。僕は知らないのだ。彼女が何故不良と呼ばれるような少女になってしまったのかを。
 ……ならば、僕のしたことというのは本当に最低だ。
 その本人とは関係のないところで流れた無責任な噂を鵜呑みにして彼女に怯え、彼女の≪本当≫を知りもせず、知ろうともせず、胸倉を掴まれたことにビビり、恐らく精一杯だったのだろう顔を真っ赤にしての愛の告白に対して八十万ボルトの一撃をお見舞いしてしまった。
 僕は恥じる。その彼女に対して一瞬でも嘘を通して丸め込んでしまおうだなんて考えてしまった恥知らずさを。
 僕は恥じる。その彼女に対して自分から誠意を貫こうとするだけのことをせず、一方的な断罪を受けたいだなんて考えてしまった恥知らずさを。
 だから僕は湧き出す唾をもう一度飲み込み、彼女に対して言った。
「ごめんなさい」
「――え?」
 言うと彼女は愕然とした顔をする。僕は続けて言葉を重ねた。
「これは、その、君の告白に対しての返答じゃないんだ。むしろもっと、それ以前の問題で……」
「……」
「僕は、君のことを知らない。いや、噂では知ってる。でも、噂でしか知らない」
「……その噂っていうのは?」
 僅かな逡巡を飲み込み、彼女の言葉に答える。
「もしかしたら想像がついてるかもしれないけど、あまりよくない噂だよ」
「……そう」
「僕は、そんな噂でしか君を知らない、知らなかった。だから今日、下駄箱で君の手紙を見つけたときはビックリした。それで……すごく、ビビッた。君はさっき、待ち合わせの場所に僕が来たのを見て『ビビって逃げたしたかと思ったけど』なんて言ったけど、それ、間違いじゃない。僕はビビってたから、むしろ逃げたらぶっ殺されるんじゃないかなんて思って、だからこそあの場所へ行ったんだ」
 永塚は黙って僕の話を聞いている。
 けれどその瞳に僅かながら落胆に近い色が浮かんだのは、容易に見て取れた。僕がしゃべり続ければ、その落胆の色はやがて、怒りの色に変わるだろう。けれど、僕はそれが分かっていてもおしゃべりを止めない。それが分かっていて言葉を止めるのは、とても卑怯だと思うから。
「君は気絶した。僕に告白をしてくれている途中で。さきは≪ある事情≫だなんて言って言葉を濁したけど、それは僕が卑怯だったからだ。ごめん、そのことについても謝る。でも、僕が謝らなきゃいけないと思ったのは、もっと酷いことを僕が君にしたからなんだ」
 永塚が訝しげな顔になる。
 もっと酷いこと、と言われて、もしかしたら眠っている間に何かをされたのかも、と思ったのかもしれない。両腕で自分の身体を抱きしめるような仕草から、それが分かった。眠っている永塚の顔を撫で回したりしてたんだから、それもあながち間違いではない。そのことについても、やっぱり謝らなくちゃ。
「君は僕に告白をしてくれたけど、そのとき君は僕の胸倉を掴んだよね? ――あれで僕はビビった。情けない話だけどマジでビビった。だって僕は君に関して噂でしか知らなかったから、絶対に殴られると思ったんだ。君がどんな子なのか、噂でしか知らないくせにそう決め付けて、僕は告白してくれる君の言葉を遮って、コレを――」
 と、懐からスタンガンを取り出し、
「君に食らわせたんだ」
 そして僕は椅子から立ち上がる。綺麗に九十度、腰を曲げて頭を下げた。
「ごめんなさい」
「……」
「……」
「……」
 沈黙が保健室を満たしていた。僕は頭を下げたまま顔を上げない。だから永塚がどんな顔をしているのか分からなかった。
 ――どんな顔をしているのか、見るのが怖かったからかもしれない。
 怒った顔であるならいいと思う。けれど、落胆されていたとしたら、それももちろん仕方の無いことだって分かっているけど、辛いところだ。
 一分か二分だろうか、それとももっと長い時間だったのかもしれない。少なくとも僕にはまるで永遠であるかのように感じられたその沈黙を破ったのは、まぁ当然だけれど永塚伊子だった。
「……分かった」
 と彼女は小さく呟く。
 許す、でも、許さない、でもなく、彼女はただ「分かった」と言って、
「来栖……センパイ? 顔、上げなよ」
 そう繋げた。
 僕は素直に従い、それでも戦々恐々とした気持ちで顔を上げる。
 永塚はきつい視線で僕のことを睨み付けている。当然のことだけど、怒っていた。「ごめん」、ともう一度謝ると、永塚はばしん、とベッドを平手で叩いた。
「それは分かった。もういいよ。でもさ、それ、あたしはそんなことが聞きたいんじゃないんだよね」
「え?」
「むかついたよ、確かにむかついた。なんで保健室なんかにいるのか分かんなくて、起きたらセンパイがそこにいたから、寝顔見られたーとか思ってドキドキした。でもそんなドキドキなんて吹っ飛ぶくらいむかついた。今もむかついてる。本当だよ?」
 言って、永塚はぐぃっと、また僕の胸倉を掴んだ。
 殴られる――! そう思って全身に力が入ってしまう。そうなるのも仕方ないって思っていたはずなのに。
 しかし永塚は、僕を殴りはせずに言葉を続けた。
「あたしさ、センパイに好きって言ったじゃん? 惚れたって言ったじゃん? だったらさ、そんなことを謝る前に言うべきことがあるんじゃないの?」
「――え?」
「あたしがむかついてるのは、センパイにスタンガン食らわされたことじゃない。それもむかつくって言えばむかつくけど、センパイが何より先に自分のしでかしたことを謝ってるっていう姿勢が一番むかつくの。ねぇセンパイ、あたしがセンパイに好きだって言ったってことは、センパイの罪悪感よりも軽いことなの?」
「それは……」
 言われて思わず言葉に詰まる。
 永塚は僕の胸倉を掴んでいた腕を放した。そのまま、ドンッと僕を突き飛ばす。
「そんな真摯な態度で謝られたら許すしかないじゃん。でもそんなの、許すの許さないのなんてあたしにとってはどうでもいいことなんだよ。あたしが知りたいのは、センパイがあたしの告白に対してどう思ったか。センパイ、まず最初に自分のしたことについて謝ってきたけど、あたしの告白に対してどう応えようとか、あたしが眠ってる間、少しくらい考えてくれた? 考えてなかったよね、今びくっとしたもん、そういうのすぐ分かる。そういうことを考えもせずに自分だけ謝って楽になろうって態度が気に入らない、それ、すっごくむかつく」
「ごめ――」
「ほら! また謝ってる!」
 そう言われると、僕にはもう何も言い返せない。俯いて口を噤むしかなかった。
 永塚はそんな僕を無視するようにベッドを降りて裸足のまま保健室の出口へ向かう。――そういえば下駄箱からなにも履かせずにここまで来てしまったんだった。そのことを今更ながらに申し訳なく思う。
「センパイのこと好きだった。多分、今でも。――でも、どうせ振られるならもっとすっきりきっぱり振られたかった。センパイになら、何されても気にしなかったんだよ、きっと。だから、あんな自己弁護にしか聞こえない「ごめんなさい」なんて聞きたくなかった……」
 じゃあね、センパイ。
 永塚はそう言い残して保健室から、僕の前から去っていった。
 薬品の臭いが微かに漂う放課後の保健室で、僕は自己嫌悪の大津波に曝されて、今にも倒れそうになっていた。

※※※

≪それはもちろんなおくんが悪いよ≫
≪やっぱりそう思う?≫
≪その女の子に悪いところがなかったとは言わないけど、でもさぁ、告白に対してスタンガンって、それはないんじゃない?≫
≪うう、返す言葉も無い……≫
 カタカタとキータッチをする音が部屋に響いている。
 ここは来栖家の二階、僕の部屋だ。
 あの永塚にとって、そして僕にしてみてもショッキングだったあの事件から数時間、僕は自分がどうやって家に帰ってきたかも覚束ないまま、気がつけばパソコンの前に座っていた。そしておもむろにMSNメッセンジャーを起動させると、オンラインだったメンバーの一人≪ゆっこ≫に今日のことを懺悔していた。
≪それでさぁ≫
≪ん?≫
≪その永塚さんて、どんな子なの?≫
≪どんな子もなにも、さっき言ったとおりだよ≫
 僕はさっきの懺悔中にゆっこに言った台詞の一部をコピーアンドペーストしてメッセージを送る。
≪『学園一の問題児、中学時代から何件もの暴行事件を起こしていて、御蔵学園入学後も僅か一ヶ月の間に二度の暴行事件と一度の停学。根は悪い子ではなさそうだけど、それ以上のことは僕も知らない』≫
≪今日話すのが初めてだったんだよね?≫
≪うん。目立つ容姿してるから、学校の中で何回か見かけたりはしたけど≫
≪私もなおくんのことメッセでしか知らないし、会ったこともないからなおくんがどんな人なのか――まぁよく知らないって言えばそうなんだけど……≫
 ゆっこはそこで一旦メッセージを区切った。
 待つこと数十秒、次のメッセージが送られてくる。
≪その子は、どうしてなおくんに告白なんてしたんだろうね?≫
 ……。
 それは確かにそうだ。僕も全く気にならなかったわけじゃない。
 僕と永塚は今日が殆ど初対面で、今日のことはまさしく青天の霹靂と言っていい事態だったのだ。
 僕は冗談交じりに返信してみる。
≪一目惚れ、とか?≫
≪ちょwwwテラワロスwww≫
≪ひでぇ≫
≪あははは、そうだね≫
 冗談だと分かっていても落ち込みそうになる。や、僕も冗談で言ったんだけど。
≪でもさ?≫
 画面上に表示されたゆっこのメッセージ。
≪なおくんは、そんなにも彼女のことを知らないんだね≫
 ゆっこの書き込みはその後も連続して、
≪なおくんは彼女のことを知らない≫
≪その永塚って子が、どんな気持ちで、なんでなおくんに告白したのか知らないんだ≫
≪なおくんと彼女の間に何かの接点があったのかもしれない、でもなおくんはそれを知らない≫
≪自分のことにいっぱいいっぱいで、知ろうともしなかったんだね≫
≪あんなことがあった後じゃ、それは仕方ないのかもしれないけど≫
≪なおくんは、その子に悪いことしたって思ってるんだよね?≫
≪だったらその償いなんて、出来ることは一つしかないじゃないのさ≫
≪永塚ってその子のことを、なおくんがもっとよく知ること≫
≪いっぱいその子に構って、その子のことをよく知って、それからちゃんと返事をしてあげるんだよ≫
 僕が返信する隙もないくらいにゆっこはメッセージを送ってきた。
 パソコンデスクに置いたコーヒーを一啜りして、僕もメッセージを返す。
≪返事って、なんの?≫
≪本気で言ってる?≫
≪もしかして、永塚の告白の返事?≫
≪あったりまえじゃないの≫
≪そんなの、今更じゃない? だって、永塚は言ったよ、『どうせ振られるなら』って。もう振られたって思ってるんじゃないかな≫
≪なおくん、さっき自分で言ったじゃないの。『センパイのこと好きだった。多分、今でも――』、そうその子が言ったって≫
 あ……!
 そうだ、確かに永塚はそう言っていた。『――多分、今でも』と、確かに彼女はそう言っていた。
≪簡単に諦めきれるような“好き”じゃなかったんじゃないかな、って、思うよ? だってそうなら、殆ど話したことも無いような人に告白なんて、出来ないと思う≫
≪それはそうかもしれないけど≫
≪けど?≫
≪だからって、彼女のことをもっとよく知ったとして、そのとき僕が永塚のことを好きになるとは限らないだろ?≫
≪そうだね≫
≪そしたらそのときは、永塚は僕に二回振られることになる。それって、残酷だ≫
≪それって優しさ? それとも保身?≫
 キーを打つ指が止まってしまう。
 ゆっこの言葉はそれほど僕の心の核心を突いていた。
≪なおくんの評価はさ、多分その子の中ではもうかなり落ちてると思う≫
≪うう……≫
≪なおくんが今になってその子のことをよく知ろうと近づいたとして、今更なんなのよって思われるかもしれないね≫
≪だったら、しない方がいいんじゃないの?≫
≪ほら、保身じゃないの≫
≪ぐは≫
≪優しさって色んな形があると思うけど、なおくんのって他人のこと思いやってるようで、案外自分が一番傷つかない方法選んでるだけなんじゃないかな≫
≪……人間、みんな自分が可愛いんだよ≫
≪そうやって居直る人が多いから、世界は優しくなってくれないんだよ≫
≪意味わかんないんですけど≫
≪今日ちょっと詩的な気分なの!≫
≪なんだいそりゃw≫
 思わず噴出しそうになってしまう。
 でも、最後は冗談めかしてくれたけれど、ゆっこの言うことは当たっている気がした。僕は永塚に本当のことを言って誠意を果たした気持ちになっていたけれど、それは別に永塚のことを思いやってのことだったかと問われると、確かにそこには自分でも疑問を覚えてしまう。
 言葉はなんの償いにもならない。ごめんなさいと口にすることは許しを求める行為だ。許しを求めているのは、それは僕だ。永塚がどうこうではなくて、僕が許して欲しかったということだ。僕の求めに永塚を応えさせただけなんだ。
 でも、だったら僕はあのとき、何をどうすればよかったんだろう?
 自分のしたことには蓋をして、永塚の言葉を聞けばよかったんだろうか。
≪そんなの決まってるよ≫
 ゆっこの書き込み。
≪そもそも、スタンガンなんて使ったのがいけなかったんだよ≫
 だったらあの時は、なにをどうしても巧いこといかなかったってことか?
≪多分、だけどね。――だから結局一番悪かったのはなおくんで、一番可哀想なのも、今こうして悩んでるなおくんなんだよ≫
≪……≫
≪可愛くて可哀想なお馬鹿さん。回線越しじゃなかったら、慰めても上げられたんだけどね≫
 ゆっこの発言はそれきり止まった。僕が何か書き込むのを待っていてくれてるんだろう。
 でも、その言葉も沈黙も、今の僕にとってはこれ以上は無い慰めになる。ネット上でしか接点のない友達、ゆっこと知り合ったのは去年の秋のことだったけど、彼女のこうした間の取り方や言葉には、僕は何度も助けられていた。優しさに色んな形があるって言ったのはゆっこ自身だけど、こういう時のゆっこは優しさの塊というか、優しさそのもののように思える。もちろん、そんなことゆっこには言えないけれど、恥ずかしすぎて。
 異様に重く感じられる指先を駆使して、僕はキーを打った。
≪言葉はなんの償いにもならないんだ≫
 しばしの間を置いてゆっこ≪そうだね……≫と書き込み。
≪だったら僕に出来る償いなんて、本当に一つしかないじゃないか≫
≪そうだね≫
≪ゆっこが言ったとおり、永塚のことをよく知って、それで返事をする≫
≪うん≫
≪でもそれだって、もしかしたら『僕は償いをしたんだ』って気持ちよくなりたい僕の自己満足かもしれない≫
≪そうかもしれないね≫
≪この気持ちは永塚にとって、迷惑にならないかな?≫
≪なるかもしれない。でも最終的にはそうはならないんじゃないかな≫
≪なんでそう思う?≫
≪恋する女の子って、そういうものよ≫
 脈絡のない、けれど妙に納得してしまう結論に僕は笑った。男にとって、僕にとって都合のいいだけの台詞を言ってくれる優しさに僕は笑って、それから――。
≪せいぜい、がんばってみるよ≫
≪それがいいよ≫
 そう書き込んで、幾分か軽くなった気持ちでゆっことしばしの雑談を楽しんだ後、メッセンジャーからログアウトした。その日はあんなことがあったっていうのに、奇妙なくらい優しい気持ちで眠ることができた。

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