ああ、学園一可愛い性格ブスな君よ、ご機嫌麗しゅう?

 あんなことがあっても地球は回って朝は来る。
 目覚まし時計のやかましいベルにせっつかれるようにして、永塚伊子は来たる朝を迎えた。
 のっそりと身を起こし、まだ暗い部屋の中を見渡す。その窓、日光を遮断する分厚い生地のカーテンは、しかしその丈の足元には朝の漏れ陽を落としている。その強さに、伊子は今日が晴天であることを察して一層陰鬱な気分になった。子供この頃と違ってある程度晴れの日でも平気で外をうろつけるようにはなったけれど、今でも雲ひとつない快晴! みたいな日には気が滅入る。なにもあんなことがあった翌日がこんな天気でなくてもよかろうに、伊子のため息は深い。
 昨日の件は、本当に最悪だった。
 精一杯の告白をして、したと思ったら緊張のあまり気を失って、緊張のあまり気を失ったとばかり思っていたら、実はそれは好きな人が自分にスタンガンを喰らわせたせいだったと判明して、しかも相手は自分の告白に対しては何も言ってくれなくて……ああもう嫌だ、思い出すのも腹立たしい――、と伊子はまた布団を被る。
 二度寝してやる。学校なんか行くもんか。どうせあの人も面白がって言いふらしてるに決まってる。アンタッチャブルに告られたーマジきもいーとかなんとか言っちゃってるに決まってる。あーくそ、絶対学校行かない、休みだ休み、自主休校! ……うう、ちょっと泣きそう。
 深く嘆息してぎゅっと目を瞑った。布団の中の暗闇はこんなにも優しいのに、世界の明るさはあたしには眩しすぎる、物理的に。今朝に限っては精神的にも。
 部屋のドアがノックされたのは、丁度そのときだった。
「伊子ー、朝だよー」
 姉の声だ。
 伊子は陰鬱な気分が更にどろどろとしたものに上塗りにされる気持ちを感じた。
 姉は性格がよくて優しい、頭がよくて成績もいい、スタイルがよくて自分より胸は大きいのに腰は細い、そしてなにより、自分みたいなアルビノでない、健康的な容姿をしている。
 伊子にとって一つ年上の姉は、コンプレックスの象徴のようなものだ。なまじ顔立ちが似ているだけに、その色の違いが胸を刺す。そんな姉と自分を比較して世に拗ね不良になってしまったのが自分なんだから、元を正せば自分が不良になってしまったのはあの姉のせいだ。そしてその姉は、もし伊子がそうした言葉を叩きつけたとしても、きっと優しく抱きしめてくれるだろう。
 それがまた伊子の気分を下げるのだった。嫉妬、八つ当たり――思うに自分の心の六割はこれで出来ている。残り三割に反骨心、最後の一割にその他諸々と乙女心。けれど姉は完璧だ。完璧な女の子だ。それが羨ましすぎて姉のことが嫌いになれない。理想だからだ。
 昨日も精神的にずたぼろで帰宅してきた自分に、姉はただ何も言わず傍にいてくれた。だから全部、昨日あったことを全部話して、慰めてもらった。気は少し晴れたけれど、また自分で新しい劣等感の種を植えてしまった。
 ――人並みに恋だって出来るって思ってた。でも、きっと来栖……センパイだって姉さんみたいな女の子のがいいに決まってる。あたしが“こんな”じゃなかったら、きっとスタンガンなんて持ち出さなかったよね……。でもさ、だからって――。
 嘆息して、被りなおした布団を蹴り飛ばした。
 思い出してたらむかついてきたのだ。
「伊子……寝てる? 起きてるなら、その……昨日みたいなことがあったんだから気持ちは分かるけど。――どうする? 今日こんな天気だし、休むんなら学校に連絡してあげるけど……」
「行く!」
 ドアの向こう、廊下から掛かった気遣わしげな姉の声に反射的に返事をしていた。
 行くわよ、行くともさ。姉さんに心配なんて掛けたくないし、泣き寝入りなんて性分じゃない。来栖センパイが好き勝手言い触らしてるなら全部コブシで否定して回ってやる。
 伊子はベッドから立ち上がると着ていたパジャマを脱ぎ捨てた。カーテンを力いっぱい開け放つ。朝日を浴びて裸の胸がプルンと揺れた。



#02 ≪アンタッチャブルに触りたい≫



 さて、ゆっこにはああ言ったけど、実際どうしたものだろうか。
 学校まで徒歩二十分の道すがら、僕は永塚のことを考えながら歩いていた。昨日のことは本当、思い返すだに気が滅入る。気が滅入ってため息が漏れる。
 ――いっぱいその子に構って、その子のことをよく知って、それからちゃんと返事をしてあげるんだよ。
 それはゆっこが僕にくれたアドバイスだが、まぁでもそれなりの誠意を態度と行動で示そうと思ったら、それくらいしか手はないだろう。
 とはいえなぁ、と僕は頭を捻る。
 昨日のことがあってそれで今日、いきなりあの子に構いつけるというのは流石にどうしたものかな、と思う。昨日の今日で態度を翻して唐突な猛烈アタックでは流石に不審がられるだろうし、それに嫌われそうだ。そうした心配もゆっこに言わせれば保身なのかもしれないが、けれど旧大戦時、我が祖国の取った神風アタックはその精神的な尊さのようなものはともかく、作戦としては失敗だったわけで。
 うーん、構いつけるのはとりあえず後回しにして、今は彼女の情報集めに専念するのがいいだろう。そして手にした情報を基に具体的アプローチについて考える。これしかない。
 ――なんて、そんなことを考えながら歩いているときだった。
「朝から難しい顔をしてらっしゃいますのね」
 横からリンとした声。気がつけば――気がつけば、なんていかにもな言い回しではあるけど――そう、気がつけば僕の隣に立って静々と歩く女生徒がいた。ふわふわとした柔らかそうな茶色の髪を背中まで伸ばした少女、蓮淵愛依香さま。デフォで様付けで呼ばれるほどにお嬢さまなクラスメートだ。
「愛依香さま……いつからそこに?」
「いつから、というほどではありませんけど……そうですね、隣で歩きながら、少なくとも六回あなたのため息を聞きましたわ」
「六回? そんなにため息ついてた?」
「ええ。幸せがため息六回分逃げましたわね。それで今のあなたがどのくらいの不幸なのかは存じ上げませんが」
「ため息六回分ねぇ……」
 その六回分の逃げた幸せを差し引いた現在の僕の幸不幸推移グラフが、プラスとマイナスのどちらに傾いているかは微妙なところである。
「朝から他人の愚痴なんて聞きたくありませんわねぇ」
「そう言いながらも話せ話せって顔、してるよね、愛依香さまは」
「そう見えるのは話したい話したいって思ってるあなたの心理的迷走が見せる錯覚ですね、私、そんな欲しがりみたいな顔なんて、しませんもの」
 肩をすくめて言ってやると、愛依香さまは憮然とした表情を“作って”みせた。こういう芝居じみたやりとりでも、そう言う風に即興で乗ってくれる愛依香さまの知性は、話している相手を退屈させないものがある。敵わないよな、と思わせるのだ。
 そうした僕の雰囲気を感じたわけではないだろうけれど、愛依香さまはくすりと笑う。十七歳の女の子がするには色っぽすぎる微笑みは、それも彼女の人気と様付けの原因の一つ。
「で? 何を悩んでらっしゃったのかしら。察するに、昨日の放課後の事件あたりが悩みの種なんじゃないかって、思うのですけど」
 そして斬って返すように核心を突いてくる。こうした鋭さは怖さ、というよりは畏怖のようなものを思わせ、それもやっぱり人気とかの理由となっていることは言うまでもない。
「……愛依香さまってさ、昨日のあのとき、あの場所にいなかったよね?」
 あのときあの場所っていうのは、僕が永塚からの手紙を開封した放課後の教室だ。あのときは既にクラスメートの殆どが帰宅していて、教室にはいつも僕とつるんでる馬鹿系男子の数名しかいなかったはずだ。
「いませんでしたよ?」
「だったらなんで昨日の放課後のことなんて知ってるんだよっ!」
「だってそうでしょう? 昨日までの来栖さんは極普通に、大過なく日々を過ごしているように見えましたわ。昨日の放課後まで……少なくとも私の見ている範囲では。ということは、いつも見ているはずの私が、けれど見ていることができなかったどこかで何かがあった、ということではありませんか? だとしたら、何かが起こったのは昨日の放課後、そういう帰結に至るのはとうぜんでしょう」
 理路整然とした答えを淀みなく言ってみせる愛依香さま。
 けれどその理屈では説明できない穴がある。愛依香さまの見ている範囲といっても、それが僕の全てというわけではない。だとしたら、愛依香さまのもっと知らない部分でもっと以前に何かがあって、それによる悩みを僕が愛依香さまの前で見せなかっただけではないか、そして今日の今、偶然そういう部分を彼女の前で見せてしまったのではないか――、という仮定を彼女の理屈はフォローできないはずだ。
「――と、いう辺りが僕の反論なんだけど、どう?」
「あら、そんなの……」
 愛依香さまは、また年相応に見えない嫣然とした笑みを浮かべながら僕の顎に指を這わせる。つつ、というその動きにぞくぞくとしたものが背筋を這い上がるのを感じた。トロンとした流し目、濡れた唇。十代の仕草じゃない。
「いつも見ている、そう言いましたわ? あなたのことを見ていない時間なんて、ありませんのよ?」
「……論理が破綻してるよ。昨日の放課後の僕を見ていないって言ったのは、愛依香さまでしょ」
「恋はロジックじゃない――そんな言葉を聴いたことはありません?」
「今度は前提が破綻した。愛依香さま、僕に恋なんてしてないだろう」
「あら、それこそ分からないでしょうに。殿方に婦人の心を測ることなんて、永遠に出来ないものですわ。私はいつだって来栖さんに愛依香って、呼び捨てにして欲しいって思ってますのに、一度だってそうしてくれたことはないでしょう?」
「少なくともね、そういう言い回しで僕のことをからかって遊んでるんだー、って、それくらいは分かれるともさ。もう、いつものことながらいい加減にしてくれよ、全く。育ちはいい筈なのに、その品性の下劣さはなんなんだろうね――って、痛い痛い!」
 つつつ、と顎のラインを撫でていた指先がつつつ、と這い上がって僕の耳たぶを抓ってきたのだ。流れるような動作に淀みがなかったためにこんな物理的な仕返しが来るとは予想もしていなかった。
「下劣、はあんまりなんじゃないですか?」
「痛っ、ちょ、爪立てるのは反則――っていたたたたた! ゴメン、ゴメンってば!」
 耐えかね謝ると愛依香さまは案外すんなりと解放してくれた。
 それでも抓られた耳たぶはジンジンヒリヒリして堪らないが。
「全くもう、そんな簡単に謝るくらいなら、最初っから憎まれ口なんて叩かなければいいじゃないですか」
「あ〜いたたた……。だって、あんな野蛮な反撃してくるなんて思いもしなかったんだよ。愛依香さまに限ってあんな非文明的な方法で不満を訴えるなんて絶対ないって思ってたのに」
「そういうこと言ってると、もう片方の耳たぶも撫でて上げたくなっちゃいますわ」
 あれを撫でると表現するのかこのお嬢さまは。
「勘弁して……」
 思わずうな垂れて降参すると、今度はくすくすと、年相応な笑顔で笑ってみせる。
「な、なんだよ今度は」
「ふふ……いえ、なんだか来栖さんのそういうとこ、父さまに似てるなって思っちゃいまして」
「愛依香さまの?」
「ええ。母さまに頭が上がらなくてね? でも口先だけ反抗して、結局尻に敷かれちゃうんですよ。……殿方のそういうところ、可愛いなって思うんですけど。……来栖さんも、可愛いんですね?」
 なんだか痛いほど愛依香さまのお父さんとやらに同情してしまうなぁ。だが同時に反面教師にもしよう。そうはなるまい、僕は愛依香さまのお父さんのようにはなるまい。例え連載が途中で投げ出されても、読者の知らないところでそんな微妙な生活を送らざるを得ないような人間には、決してなるまい。
 ――と、僕がそんな意味不明な決意を固めているのは置いておくとして、愛依香さまは「それで」、と仕切り直す。
「それで、来栖さん? 本当に、昨日の放課後なにかあったんですか?」
「うわ、その話もう流れたんじゃなかったの?」
「私としては流してもよかったんですけどね? だって来栖さん、聞いて欲しそうな顔してたっていうのは、本当ですもの」
「そうだったかな……」
「少なくとも、いつも来栖さんのことを見つめている私には、そういう顔に見えたってことですわ」
 ぷい、と顔を背けてそんなことを言ってくれる。その仕草が年相応……どころかもっと幼く見えて、僕は思わず笑ってしまった。
 するとやっぱり、今度は予想したとおりと言うべきか、愛依香さまは憮然とする。
「なんです? 何かおかしなことでも?」
「はは……いえね、愛依香さまのそういう言い回しって、優しさだよなぁって思って」
「むぅ、可愛くないですね来栖さん。こういうときにそういう憎まれ口は減点です」
「これ以上減点されたらマイナス得点になっちゃうかな」
「ふふ……始めが満点だから、減点しても一〇〇点以上になるだけですわよ」
 また意味不明なことを仰る。
「減点に減点をかけたらプラスにもなるでしょう?」
「……知らなかったな、減点法って掛け算アリなんだ」
「蓮淵独自の減点法ですけどね」
 さ、それでどうします?
 そう言って愛依香さまは僕の返答を待ってくれる。
 僕は――。

※※※

 僕はポリポリと頭を掻いた。
 愛依香さまの申し出っていうのは善意の提案だから、それを断るのはどうにも申し訳なさが先に立つのだけど……、
「いや、遠慮しとくよ。気持ちだけもらっとく」
「そうですか?」
「ん、実を言うと昨日のことに関してはもう、別の人に相談してアドバイスを貰っちゃってるんだよね。それを試してみもしないうちからまた別の人に助けを請うっていうは、流石にどうかと思うし」
「参考意見は多いに越したことはないと思いますけれど?」
「僕一人の問題とだったならそれでいいかもだけど、他人のプライバシーにも関わってくるから」
 ゆっこにああも素直に相談できたというのは結局、あのときの僕が精神的に弱っていたということよりも、直接的な知り合いでない、ネット上だけでしか付き合いのない人間だからこそ、というのが大きかったんだろう。リアルでの付き合いがなくて、お互い本名も顔も知らない関係だからこそ話せることっていうのはやっぱりある。
 愛依香さまは僕の返答に「それでは仕方ないですね」と言って微笑み、それ以上は聞かないでくれた。こういう切り替えの早さは流石愛依香さま、と思わせてくれる。秘密にされれば気になってしまうのが人間というものだろうけれど、愛依香さまは本当にそういうところは淡白だ。
 その愛依香さま「ああ、そうですわ」と思い出したように口を開いた。
「ところで直巳さん。話は変わるんですけど」
「ん?」
「六月に現行生徒会の解散と、次期生徒会長と副会長を決める選挙があるのはご存知ですよね?」
「ああ、知ってるけど」
「私、どうも遺憾ながらその選挙に出る羽目になりそうですの」
 唐突な話題の変換に僕は「へぇ」と間の抜けた声を出してしまう。
 というかそれくらいしか言葉の返しようがない。
 言われてみれば愛依香さまは書記だか会計だかで生徒会に所属していたの思い出すが、それを思い出したからと言って一般生徒に過ぎないこの僕ではどうコメントしたものやら。
「なんと言うか……おめでとう? それともご愁傷様?」
「私個人の気分でものを言えば、ご愁傷様、という感じですわね」
「それじゃあご愁傷さまだ」
「全くですわ」
「選挙にはどっち出るの? 会長? 副会長?」
「副会長で出ることになりそうです。会長には常磐さんがなられるでしょうね……あの方は去年から副会長でいらっしゃいましたし」
「ふぅん」
 今の副会長の常盤と言えば、確か理数科にいる常盤八重子のことだろう。僕の同学年では首席入学した才媛で、ファンも多い。普通科でしかも文系一直線の僕とでは、まず縁がない。
「まぁそれはともかく、現生徒会が任期満了の解散をするとなれば、次の生徒会を、私たちの代の生徒会を組織しなくてはならないわけです」
「そらそうだろうね」
「で……そこで相談なんですけど、ねぇ、直巳さん?」
 と、愛依香さまは少し恥じ入るように俯いて、僕の制服の袖をちょんとつまんだ。
 そして上目遣い。切れ長に見えて大きな瞳が、気のせいか潤んでいるように見える。正直言って可愛い、可愛くはある、だが――、
「――なに?」
 なぜだろう、ものすごく嫌な予感がするんですけど。
 そんな僕の心境など知らぬげに、愛依香さまは言葉を続ける。
「直巳さんは確か、どこか特定の部活動に入部しているということはありませんでしたよね?」
「生粋の帰宅部だけど、それがなにか?」
 冷や汗が伝う。
 対する愛依香さまは「それは結構」とふわりと綿菓子のように甘く微笑んで、こんなことを言ったのだ。
「どうです、この辺りでで一つ、学園生徒の公共の福祉に貢献してみようなんて気持ちはありませんでしょうか?」
 ≪あるあ……ねーよ≫、とは正にこういうときのために使う慣用句(?)だろう。


『――すぐに決めろ、という話ではありませんし、お返事はいつでも構いませんよ。今後の学園生活に深く関わってくる問題ですので、熟慮に熟慮を重ねた返答を期待しています。ああでも、面倒だからとかそういう理由で反対票を投じるのは漏れなく却下させて頂きますので、あしからず』
 愛依香さまの提案とかそういうがああも唐突なのは、実を言うと今に始まったことではない。
 僕と愛依香さまの関係は、御蔵学園中等部の一年次にまで遡ることができるからだ。僕が地元公立小学校から御蔵学園へ編入して、それから高等部二年の今日に至るまでの五年間、僕と愛依香さまは何気にずっと同じクラスだったのである。
 この五年という付き合いが長いか短いかで言えば、結構微妙な線だろうとは思う。それでもその微妙な期間というのは、愛依香さまの人となりを知るには十分過ぎる時間だった。
 愛依香さまは根本的にというか本質的にというか、お嬢さまである。彼女の生家である蓮淵家というのはこの辺りでは有名な名家であるし、その生業も先代の頃から上向きに上向きを重ね、現当主の代に変わってからは学区統合の果てに巨大化した御蔵学園(旧薬塚学園)の理事に名を連ねるまでになっている。
 そんな彼女は両親に溺愛されてなに不自由なく育ち、砂糖菓子のような少女となって今に至る。年に見合わない思慮深さと知性をで男子生徒の思慕を一身に集め、反面、適度に悪戯な性質がより一層の魅力となって惹き付けた恋情を離さない。
 だけれど、蓮淵愛依香お嬢さまの悪戯な性質というのは、時に時折年不相応な幼さと我がままさとなって猛威を振るうこともある。例えば男の純心をからかって遊んだりするところもそうだし、去年の学園祭や中等部時代の文化振興イベントなんかでもそうだった。あの超演劇の超脚本は思い出すだに身が震える……まさか学生の舞台演劇で香港映画ばりのアクションシーンを演じることになるとは思わなかった。
 ――まぁそんな恐怖の追体験はさておき、彼女の年不相応な幼さと我がままさは、しかしそうなってもやっぱり年不相応な思慮深さと知性を見失わない。自分の言っていることが我がままだと分かっていて、ダダを捏ねて我を通そうとするのではなく、策を持って周囲の人間さえ愛依香さまの我がままを黙認するしかない状況に持っていってしまうのだ。
 世の中には様々な意味合いから権力を持たせるべきでない人間というのが確かに存在する。愛依香さまは、具体的にどんな意味でかは言及しないけれど、そういった人たちの一人に数え上げられるべき人間だろうことを、僕は確信しているのだ。
 そんな彼女の言うことだから、いよいよ暢気に構えていられないのが今朝の提案だ。
 僕に生徒会執行部役員にならないか、というお誘い――、彼女を副会長とはいえ生徒会権力の中枢の一人に据えようという動きがあるというだけで、僕としては作り笑顔が引きつる思いなのに、そのうえ僕をそこに巻き込もうと画策しているらしい。
 あの愛依香さまの言うことだから改めて確認するまでもなく本気なのだろうし、「最終的には直巳さんの自由意志で決定してくれたらいいですよ」なんて言っていたが、それはその最終判断に至る過程でなにかが起こるという可能性を示唆しているとしか思えない。
 ――そういうところを抜きにすれば、愛依香さまのことはかなり好きな部類に入る女の子なんだけど……。
 教室に入ったところで愛依香さまとは別れ、僕は自分の席について朝っぱらから訪れた困難にドッと疲れを感じて突っ伏した。
 ――愛依香さまも、なにもこんなときにそんな難題持ち込んでくれなくてもいいだろうに。
 という辺りが今現在における僕の素直な心境である。
 僕には今正に現在進行形で抱えている問題がある。言うまでもなくそれは、永塚伊子という僕に告白してくれた一年生についてのことだ。
 僕の無思慮と無礼から不誠実をしてしまった相手に対しての、こういう言葉はアレだと思うけれど、贖罪をしなくてはならない。昨日の時点で僕は既に彼女に謝罪をしているけれど、それは謝罪という形を残しただけで、内容を一切留めていなかった。相手に届かない謝意になど、なんの意味もない。
 だからこその贖罪ではあるけど、下手したらそれは、それさえも僕の自己満足かもしれないという可能性を孕んでいる。アジア外交なみの慎重さが求められる作業なのだ。
 そんなときのまた別の厄介ごとを持ち込んでくれるんだから、本当に愛依香さまという人間はお嬢さまである。そして、実を言うとそんな厄介ごとを持ち込まれているにも関わらず、どうにも嫌ではない、という風に思ってしまっている自分も確かにいるんだから、これはこれで大問題だ。ひょっとして、僕ってMなんだろうか。
「おいおい、なに朝っぱらから疲れた顔でにやにや笑ってんだ?」
 と、そんな声が背中に掛かり、ばしんと背を叩かれた。
「ぐぇっ!?」
「わはは、変な声だな? ――おはよっす、来栖。昨日は大丈夫だったか?」
「いったいなぁ……磯崎、馬鹿力過ぎ!」
「わりーわりー。でも、そうして元気に噛み付いてくるってことは、昨日はなにもなかったわけか」
 磯崎幸一というこのクラスメートは、全然悪びれもせずデカイ身体を揺すって笑った。
 その罪もなさそうな笑顔に腹が立つ。何を隠そう昨日の件で僕にスタンガンを渡してきたのはこいつなのだ。言うなれば諸悪の根源。そのやつがまるで太平楽とでも言わんばかりに豪快な笑い声を上げているという状況には如何ともしがたい思いが募るのだ。
 ……いや、それも八つ当たりだってことはわかってるけどさ。
「それで? そうして五体満足に見える有様でここにいるってことは、昨日の呼び出しはなんだったんだ? あのあと、夜になってお前の携帯かけてみても繋がらなかったし、俺はてっきりお前が闇に葬られたもんだとばかり」
 がたんと僕の前席の椅子に後ろ向きに腰掛け、そう聞いてくる。
 お前がそれを聞くのかよ、と突っ込みたい心境にもなったが、何しろ事情を説明できない身分の僕としては、こう答えるしかない。
「別に、大したことはなかったよ」
「そうなん?」
「そうそう」
「本当かよ……あの永塚だぜ? 永塚伊子、御蔵学園のアンタッチャブル!」
「少し話しただけだけど、そんな酷い子でもなかったよ」
 言って、ゴン、と机の上に昨日こいつから借りたスタンガンを置く。
「返す」
「おう。役に立ったか?」
「全く」
 なにしろ事態を負方向へ急転直下させてくれた。そりゃあ直接的な原因は僕のヘタレさにあるんだけどさ。酒が無ければ呑まなかった、だから俺が飲酒運転した責任は酒造メーカーにある――なんてそんな理屈とおんなじだ。
 自己嫌悪も極み。深いため息をつくと、磯崎が面白そうな顔で聞いてくる。
「なんだよ、悩ましいツラしてるけど、やっぱりなんかあったんだろ?」
「……そりゃね、なにもないわけじゃなかったさ。ただ、それをお前に報告する義務はないってだけ」
「けちなこと言わずに教えろよ〜」
「やなこったい」
 言えるわけがないんだよな、告白してくれたけど、それどころじゃないくらいにびびってスタンガンで気絶させました、そんでもって怒られて凹んで今は贖罪の道を模索してます、なんてさ。
 こいつみたいな口の軽いのにそんなことを話したら、瞬く間に色んなところで噂になってしまうだろう。そしたら俺は停学とかにもなっちゃうかもしれないし(女の子にスタンガンなんて使ったんだから当たり前だ、というか普通に犯罪かもしれない)、それになにより、告白への返事はスタンガンでした、なんて永塚の噂が流れたら可哀想だ。
 僕がまた机に突っ伏して唸り始めると、磯崎は興味を別に移したようで、「じゃ、また後でな」なんて言って離れていった。ちらりと視線だけでその後姿を追うと、ちょうど今教室に入ってきた友達のところに行ったらしい。
 ぐっと身を起こし、僕は思考を切り替える。
 いい加減過去を悔いるのは止めて、事態の打開に向けて動き出さなくては。
 まずは永塚のことをよく知ることから始めよう。
 方針はそれでいいとして、ならば具体的にどうすればいいのか。
 本人に尋ねるのは今の段階では論外だし、あんまり露骨に聞いて回っても角が立つだろう。
 カバンの中身の教科書などを机の中に移しながら、今日の午前中は授業に身が入らないだろうな、とかそんなことを思った僕だった。

※※※

 案の定授業に身の入らなかった午前中を終えて昼休みである。僕は昼ごはんもさておき、とある保健室を目指して歩いていた。
 保健室は全部で三つある高等部校舎の一つ、一号舎の一階にある。各学年の教室が詰まっている二号舎や三号舎と違い、特殊教室ばかりが詰め込まれている一号舎の空気は、この学校内では少し異質だ。廊下を歩く生徒の数が少ないから余計にそう感じられるのかもしれない。
 昼休みの喧騒もどこか遠い静かな廊下をてくてくと歩いて、僕は保健室の前に立った。
 こんこんとドアをノック。
「失礼します」
 がらりとドアを開けて中に入ると、消毒の臭いが鼻を掠めた。
 中学から大学までの一貫教育を行う御蔵学園だけあって、保健室は広い。その広い保健室の真ん中に置かれたソファに、一人の少女――にしか見えない女性が腰掛けていた。
「あ、来栖くんだ。いらっしゃい」
「どうも、菫先生」
 養護教諭の小手川菫先生。
 身長一四〇センチ代という中学生もかくやなミニマム教師である。生徒たちからは「菫ちゃん」の呼び名で親しまれている。もとい、舐められている。去年の僕は保健委員会に属していたおかげで、この人気者のプチ先生とは浅からぬ縁を持つことが出来たのだ。
 菫先生は「よっと」なんて反動をつけてソファから降りると、ポテポテといった感じで僕の方に歩み寄ってくる。相変わらず足元まで垂れているサイズの合っていない白衣がラブリーだ。
「なんだか久しぶりだね、来栖くんが保健室くるのって。二年になってからは初めてじゃない?」
「そうでしたっけ」
「そうだよー。来たら忘れないもの。記録にも残すんだから」
 親指で保健室のデスクを指差しながら言う菫先生。デスクの上には保健室の利用届けのプリントが置かれている。
「それにしても、はぁ……」
「なんです、先生?」
「ううん、わたしさ、来栖くんなら二年になってもまた保健委員やってくれるって思ってたんだけどなぁ」
「保健委員って人気あるから、そうそう上手くはいかないですよ」
「そうなの? でも残念だなぁ。来栖くんと久那崎さんのコンビっていい感じだったから、見てて楽しかったんだけど」
「久那崎、ですか」
 ちょっと胸に染みる名前だ。
 久那崎有歌、去年のクラスメートで一緒に保健委員をやっていた女の子である。二年に進級したときにクラスが分かれてそれっきり、という感じだけど。
「あいつ、今年も保健委員なんですか?」
「うん。今年度最初の顔合わせの時もね、新委員の顔ぶれの中に来栖くんがいなかったせいだろうね、すごいがっかりしてた」
「……保健委員は抽選でしたから、仕方ないですよ」
 ははは、と苦笑して言うしかない。本当のことを言えば、僕はそもそも保健委員に立候補しようとしなかったから、抽選でも選ばれようがなかったのだ。
 けれど先生にそんな僕の嘘に気づく余地はないだろう。それじゃ仕方ないね、なんて笑ってくれる。申し訳なさが少しだけ、胸を濡らした。
「それで今日はどうしたの? その顔だと体調悪いって感じでもなさそうだし」
「えーと、まぁ、たまには世間話でも……って感じでどうですか?」
「あはは、どんな感じなのよそれー。あ、座って座って。今お茶出すから」
「なんだかすいませんね」
「いーのいーの、気にしないでよ。先生と来栖くんの仲なんだし、ね?」
 にっこりと笑って菫先生はお茶を淹れる準備にかかる。
 備え付けのポットと急須は僕が一年の頃に使っていたやつと変わっていないみたいだ。
「ところで来栖くん、お昼は?」
「まだですよ……というか、今日はもう抜きですかね。これから先生と世間話して、それからじゃあ食べる時間なさそうですし」
「先に購買行ってパンとか買ってくればよかったのに」
「あそこ並んでたら時間掛かりますから」
「それで昼食抜き? 駄目ですよ来栖くん、昼食はちゃんと食べないと午後の授業をしっかり聞くだけのエネルギーが生まれないんだから」
 お説教の常套句だなぁ、と僕は苦笑。人差し指を立てて威厳を装ってそう言う様はステレオタイプなお姉さんって感じだ。あくまでお姉さんであって先生には見えないところがミソ。しかもちょっと無理してるお姉さんだ。
「先生はお昼、どうするんです?」
「わたし? わたしみたいにお昼休みにも仕事がある先生は、お昼休みは我慢して五限目に食べるんだよ――、ていうか、そうだ! ねえ、来栖くん?」
「はい?」
「あのさ、よかったらお昼、一緒しない?」
「なんですか急に」
「やー、今日のお弁当うちのママンが作ってくれたんだけどさ、ママンってばわたしの嫌いなもんばっかいれてくれちゃってねぇ」
「それで僕に食べろと?」
「お願いっ」
 思わず嘆息してしまうのも仕方ないだろう。
 子供じゃないんだから好き嫌いで生徒に泣きつくなんてやめてくださいよ、と苦言を呈すれば、先生も困ったように苦笑いだ。
「やー、分かってはいるんだけどねぇ」
「第一、学生に好き嫌いがあるなら正すべき立場なのが養護教諭でしょう?」
「意地悪言わないでよ。教師だって人の子よ?」
 意地悪なんかでなくて正論だと思うのだけど。
「じゃあ先生の嫌いなものってなんなんです?」
「肉詰めピーマンとインゲンのソテー、鳥皮のから揚げと甘い玉子焼きっ。ぜーんぶ私の嫌いなものなのよ? でもってオカズもそれで全部。今月ちょっと携帯使いすぎたのは悪かったけど、それでこんな地味な報復なんてママンもどうかしてると思わない?」
「というか社会人が親に携帯の代金を払ってもらってるって事実がまず驚きですね」
 少なくとも僕の携帯の使用料金はお小遣いとアルバイトから捻出している。それを告げれば引きつったような笑みを浮かべる辺り、先生も自覚はあるのだろう。
 とはいえ。
「う゛っ……いいじゃないのよ、別に。家族割引なんだからしょうがないの!」
 自覚があってもエクスキューズがあれば良心の呵責にも素直になれないのが人間である。
「そういうもんですかね」
「そういうものなの! で、わたしのお弁当、食べてくれるの? くれないの?」
「先生のお昼ご飯はどうするんです?」
「五限目に学食行ってもいいし、なんならおやつに買っておいた菓子パンでもいいからね、わたしは。だから来栖くんは気にしないで憎々しいママンの愛憎を食べちゃって頂戴」
 ね? なんて両手を合わせて上目遣いにお願いしてくる菫先生だ。そういう仕草がとても年上に見えない可愛らしさなのが彼女の人気の秘訣なのだけど、その威力は先生のそれが一種の媚であると知っている僕をして逆らえないだけの可愛らしさなのだから手に負えない。
 今度は僕のほうが「う゛っ」、と濁点つきで唸らされる番だった。
 こほんと咳払いを一つして、
「なんだか先生のお母さんに申し訳ない気もしますけど……それじゃあ頂きます」
 結局そう答えるしかないわけで、そうなってしまえば、
「うん! よろしくお願いね?」
 にっこりと満面の笑顔で微笑むのが菫先生なのだ。本当にこの人はズルイよなぁ。


「永塚伊子について教えて欲しい?」
 菫先生のお母さん謹製のお弁当をもさもさと頬張りつつ、出来る限りのさりげなさを装って出した世間話、つまりはここに来た理由について話すと、先生はきょとんとした顔をした。もともと大きな目をまん丸にして、意表を突かれましたと言わんばかりの表情だ。
 まぁそういう顔をするのも分かる。
 なにせ相手は御蔵学園のアンタッチャブル――、その話題に関しては触れずにおくことが平穏な学園生活を送るコツ、だなんて失礼な安全標語が入学から僅か一ヶ月強にしてまことしやかに囁かれるほどのヤンチャ娘である。先生方の間でも認識は似たり寄ったりらしい、という噂は聞いたことがあるけれど、その実体はどうなのだろう。
「ええ、まあ。こういう言い方はアレですけど、彼女ってああいう外見でしょう? あの手の体質の人っていうのが一般的に身体が丈夫でないって話はよく聞きますし、もしかしたら先生ならなにか知ってるかなって思って」
 僕がそう言うと、菫先生はうーんと考え込んだ顔をした後に菓子パンをもふりと頬張って、
「もぐもぐ……、ん、いやまぁ、確かに永塚さんについては、その体調のことも含めてイロイロお願いされてるわけだし? そこそこには知らない仲ってわけじゃないよ?」
「ああ、やっぱり」
「彼女の気性に拠るところっていうのもあるだろうけど、保健室にもそこそこの頻度で来るからね」
「それってアレですか? やっぱり、その、ああいう体質の人につき物、みたいなやつなんですか?」
「どうかな? 一概にはそうと言えない部分もあるんじゃないかと思うけど……でも来栖くん、こういうのって、人のプライバシーに関わる問題なんだから、わたしにだって教えられること教えられないことってあるよ?」
「や、まぁ、それは分かりますけど」
「てゆーかさぁ、そもそもなんであの子のことを知ろうなんて思ったの?」
「そこも、まぁ……ちょっと事情がありまして」
「事情?」
「や、その、あんまり詮索しないでもらえると助かります」
 僕の永塚、きっとお互いのために。
 ――と、僕はそう思うのだけど、やっぱりそう言ったところで事情を知らない人間に納得してもらえるわけなどないのである。
「なーにー? 自分のプライバシーは明かせないくせに、他人のプライバシー情報は寄越せって言うのぉ?」
 むっつりと剣呑な目をする菫先生。
 でも頬を膨らませているのがラブリーなのであまり威厳は感じない。
「別に……そんなプライバシーとか、大した話が聞きたいわけじゃないですよ?」
「じゃあなによう」
「そう、ですねぇ……とりあえず、あの永塚って女の子が、実際はどんな子なのかって、そういうことを教えてもらえれば」
「実際は、っていうと、人づての噂じゃなくて、わたしが接したあの子がどんな子か、ってこと?」
「そういうのがベストです」
「なに、永塚さんと何かあったの?」
「……まぁ、ちょっとだけ」
「ふぅん? それで興味沸いちゃったってこと?」
「当たらずも遠からず、って感じですかね」
「何があったのよう」
「黙秘権を使用します」
「却下」
「――お弁当の残り、全部ご自分で食べてくださいね」
「ちょっとぉ! それはズルイんじゃない!?」
 立ち上がって席を辞そうとすると、先生は慌てたように引き止めに掛かってくる。
 うわ、これが交渉術として通用しちゃうんだ……。
「じゃあ、教えてくれます?」
「うう……」
「……」
「……ううう」
「……じゃ、失礼しますね」
 颯爽と踵をかえs「うあーんっ、待った待ったぁー! 話す、教えるからちょっとストップー!」
 この人、本当に二十四歳なのかなぁ。

※※※

 お茶で一息ついて、雰囲気を仕切りなおしてから先生と僕は話し始めた。
 ちなみにお弁当は結局僕が全部食べた。美味しかった。
 ずず、とひと啜りした湯のみを置くと、菫先生は顎に指さきを当てて小首をかしげる。
「わたしが知ってるあの子のこと、って言ってもねぇ。……うーん、わたしもそんなに詳しく知ってるわけじゃないんだよ?」
「はぁ。と、言いますと?」
「そりゃあね、わたしも養護教諭だからあの子の身体に関してはイロイロ知ってるよ。もちろん、専門的な分野のことはさておき、くらいのことだけどね。でもまぁ、あの子保健室よく来るから、そうなるとやっぱり話をする機会ってのも少しはあるんだ」
 うん。そういうポイントを期待して菫先生と話に来たんだよな。ところで実際、どのくらいの頻度で永塚は保健室を訪れているんだろう?
 僕が問うと、先生は渋面で答えた。
「んー、これも個人情報の範疇だから教えられないなぁ。保健室の利用回数って、それが授業欠席に繋がることなら即内申書に関わってきちゃうから」
「そですか……まぁ、それはそうですよね」
「うん、だから話せることと話せないことがあるって、さっきも言ったんだよね」
「そういうことなら仕方ないです。別の質問に行きたいんですが、結構ですか?」
「うん。……っていうかなんか尋問されてるみたいでやだなぁ、この雰囲気」
 たはは、と苦笑する先生。
 でもまぁ、それはあまり気にしない方向で。なんかドキュメント番組のインタビュアーみたいな気持ちになってきちゃってちょっと楽しんでる僕がいるんだ。ドキュメンタリー、結構好きだし。
「では次の質問ですが、保健室をよく利用するという永塚とのお喋りの話題について教えてください」
「話題?」と、先生は少し考えて、「……そうねぇ、あんまり特別変わったこと話した、って記憶はないかなぁ」と、答えた。
「話題としてはあまり目立ったような話はしていないと?」
「うん。どうしたの? 体調悪い? じゃあそれ(利用記録)書いて。熱は? ない? 昨日は早く寝た? 朝ごはん食べてきた? そう? じゃあそこのベッドに横になって、一時間くらい休んできなさい。――とかそんな感じ」
「……それ、話したっていうんじゃなくて、事務的な言葉のやり取りでしかないんじゃないですか?」
「そんなことないよぉ。学校には慣れた? とか、授業は詰まんない? とかそういうことも聞いたりしたってば」
 ん、そこですそこ。そういう話が聞きたいんだ、僕としては。
「その質問に永塚はなんと?」
「別に、とか、関係ないでしょ、とか」
 なんというか、いかにも、って感じだ。
「……その答えを聞いてどう思いましたか?」
「≪うっわ、なにこのガキ。感じ悪〜い。チョーシのってっとぉ……こ・ろ・す・ぞ☆≫みたいな?」
 先生……。思わずジト目で見つめてしまう僕。
 だってそれは、あまりにあまりだろう。
「な、なによう、そんな呆れた目で見ないでよ!」
「流石に教育者としてどうかと思いますよ」
「しょ、しょうがないじゃない、教師だって人間だもの!」
 もっとこう、聖職者の自覚というか。
「うー、確かにね? そりゃあ今みたいなの口に出したらマズイって分かるけど、思うのも駄目なんてそんなの、思想統制だよ。イクナイ!」
「はぁ、それは失礼しました――そうですね、思うだけなら自由ですものね」
「うわ、来栖くん絶対頭ん中じゃ別のこと考えてるでしょ」
「思うだけなら自由ですから」
「可愛くないぃー」
 別に可愛いと思われたいわけでもないからなぁ。
 唇を尖らせて抗議する菫先生は可愛らしいと思うけど、ううん。
「質問続けて結構ですか?」
「ぶーぶー、好きにしろー」
「では好きにさせて頂きますが」
「なんか慇懃だなぁ、感じ悪いぞー」
「好きにしろって言ったのは先生じゃないですか……先生は永塚に関して流れている噂をご存知ですか?」
「えー? ……うん」
「ではその噂の永塚と、実際の永塚、その二者間にイメージの相違はありますか?」
「何その持って回ったみたいな言い回し」
「いや、なんか気分で」
 頬を掻きながら僕が言うと、「よくわかんない子だなぁ、来栖くんも」先生はあははと笑って、「そうだねぇ……まぁわたしも噂の全部を耳にしてるわけじゃないし、あの子の全部を知ってるわけじゃないから大層なことは言えないんだけど」そう前置きをしてから話始めた。
「手が早くて乱暴者、って辺りに関しては否定できない事実なんじゃないかな、って思うよ。でも――」
「――続けてください」
「うん――、ただ、流れてる噂じゃやっぱり、面白おかしい部分だけを切り抜いてるって感じはするね。何故あの子が暴力を振るったのか、どうしてそういうことになったのか、っていう点に関しては一切触れられてないんだもん」
 そう。僕もそう思ったから、こうして永塚の人となりについて知らなくちゃって思ったんだ。
 理由はもちろんそれだけじゃないけど、ただ、何も知らないままで永塚に対してああいう態度を取ってしまったことを、僕は後悔している。
「先生は噂で触れられない、≪なぜ、どうして≫の部分について何かご存知ですか?」
「ちょっとだけね。もしかしたら、そのちょっとだけの部分で全部なのかもしれないけど」
 困ったように笑って先生は続ける。
「そうね、高校に入ってからの二回の暴力事件は知ってるでしょ? どっちも永塚さんが先に手を出した、そのことには間違いないんだけど、その両方ともが、殴られた子が永塚さんの容姿に関して耳心地の悪いことを言ったらしいんだよね」
 それは僕も噂で知っている。そこまでは噂でも流れたことだ。
「永塚さんのあの容姿、目立つじゃない? 高校生になってもそういうこと本人に対して聞こえよがしに言う輩がいるんだから、もっと小さい頃、小学生とか幼稚園のころなんて、もっと酷かったみたいなんだ」
「それ、昔は苛められっ子だったってことですか?」
「そうみたいだね。でも、問題はただあの子がやられっぱなしで黙ってる子供じゃなかったってこと。言われたら言い返すし、やられたらやり返す。嫌なこと言われたら口でやり返して、言ってわかんないやつには拳で黙らせる、みたいな?」
「昔っからそんなんだったんですか」
「根が深いよねぇ。でもこれって、あの子だけが悪いわけじゃないじゃん。すぐに手が出るって傾向があるのが分かってて、それを矯正できないまま今の年まで育てちゃった親も悪いと思うし、親に出来ないことなら学校がなんとかしなくちゃいけない問題ってあるでしょ? 学校は集団生活の場なんだ。なら、そのフィールドを歪ませないためにも、小中学校時代の永塚さんの担任たちは、真摯に彼女と向き合うべきだった」
「昔の担任たちはそういうことをしてこなかったと?」
「したかもしれない。でも結果に反映されてなかったら無意味だよね。――なんて、わたしが言えることでもないんだけど」
 結果に反映されない過程になんて意味はない――教育の世界でそんなことを言えば、能力主義的すぎると糾弾されるだろうけど、それは全ての場合においてその理屈が通るわけじゃないよね、と先生は言った。
 虐めはいけないと教えていたからといって、それで虐めがなくならないならその教師の言葉に意味はなかったのだ。永塚への中傷は小学校中学校通してなくならなかったし、それに対して永塚が暴力でやり返す癖も義務教育期間中ずっと続いた。
「だって……わたしもさ、永塚さんがそういう子だって知ってて、結局今までまともにあの子に説教なんてしてなかったんだよ? あの子がうちの学校に入ってもう二回も人を殴ってさ、その殴られた子っていうのは保健室に運ばれてきて、殴った永塚だって何度となく保健室に来てるんだから、わたしだってもう無関係じゃないのに……そういうの担任の先生の仕事でしょー、って言ってさ。一応は通り一遍の形式上でのお説教くらいしたけどさ、そんなの、心なんて篭ってなかったんだから。それじゃわたしに、小学校中学校時代のあの子の先生たちをどうこう言う資格なんて、ないよね?」
 あの子のね、学校の先生を見る目つきって凄いよ――、と菫先生は続ける。
「もうね、お前たち教師なんてクソだ! って言わんばかり。永塚さんの義務教育九年間を思えば、それも仕方ないのかなっていう気もするけど。わたしたちになんか最初っから何も期待してませんーって感じ。永塚さんはね、きっと強い子なんだよ。それに、頑なな子。どんな言葉の暴力を浴びせられても、自分の心を鎧で守ることを覚えちゃったんじゃないかな。それって、どんな感じなんだろうね? わたし、想像もつかないや」
 先生は肩を落として辛そうに笑った。
 小手川菫というミニマム先生がみんなに好かれるのは、こういうところだろうな、と改めて思う。そのときそのとき心情を、偽らないで素直に吐き出せるところだ。
 人は大人になるたびに被る仮面の数を増やしていくと言う。自分の心を裏に隠して、表面を取り繕うのが上手くなるのだ。息を吐くように嘘をつくのが大人という生き物だって、僕の友達が前に言っていたのを思い出す。息を吐くように、というのは流石に言いすぎだろうと僕は思うけれど、大人がたくさん嘘をつくのだけは、それは確かだ。
 だからこそ、菫先生みたいな馬鹿正直さが好ましく映る。落ち込んだときは落ち込んだ顔を見せてくれるし、こっちが落ち込んでいる時でも一緒に落ち込んでくれる。や、一緒に落ち込んでくれるっていうのはどうかと思うけれど、重要なのは先生でありながら、ちゃんと生徒の視線に一緒に立ってくれることなんだ。
「ねぇ、来栖くん」
「なんでしょう」
 俯いてしばし黙考していた菫先生が顔を上げる。
「来栖くんは、なんで永塚さんのことを知ろうと思ったの?」
 今日二度目の質問だ。けど、さっきのとは意味合いがずいぶん違って聞こえる。
「そんな、大した理由じゃないですよ」
「うん」
「ただね、僕もあの一年生の女の子のことを、誤解してたなって思うことがあったんです。だから、あの子のことを知ろうと思いました。それだけですよ」
 嘘は言ってない。けど全部を言っていないというだけなんだけど、これも誤魔化しに入るんだろうか。
 多分僕が全部を話していないことに気づいていたと思う。それでもただ、
「そっか」
 とだけ言って追求はしてこなかった。
 先生はフフッと自嘲気味に笑って天井を見上げた。
「わたしね、あの子のことよく知らないんだって、今日そのことが改めてよく分かったよ」
「奇遇ですね」
「ごめんね、なんだかなんの手助けにもならなかったみたい」
「そんなことないです。彼女のルーツの一端を知ることが出来たんじゃないかって、思ってますよ」
「そうだといいんだけど。ねぇ、来栖くんは永塚さんのことを良く知って、どうするの?」
「それは……」
 僕は一瞬言いよどんだ。だって、明確な答えなど持ち合わせていない。ゆっこは永塚のことをよく知って、それからもう一度ちゃんと、告白の返事をしてやるのがいいと言っていたけれど、僕は、僕自身はどうしたいんだろう。
 だから僕は肩を竦めた。無理に答えを出すことはない。今はまだ迷いの中、それでいいのかもしれない。
「分かりません。ただ今は、まず知ることから始めようって思っただけですから」
 僕が苦笑して言うと、先生も笑った。
「そっか。そうだよね、まずはそこからなんだ」
「はい」
「じゃあ、わたしもそうしよっかな。いい子でも悪い子でも、わたしの生徒だもん」
 そう言って、先生はふんわりと笑った。


 その後も暫く他愛のない雑談をして、直巳は昼休みの終わる十分前に保健室を出て行った。
 教師と生徒のお喋りが響いていた保健室内に沈黙が満ちる。
 直巳を送り出した菫はぐっと背伸びをして億劫そうに肩を回すと、保健室の奥、カーテンに仕切られたベッドに向かって声を掛けた。
「ねぇ、起きてるんでしょ、永塚さん」
「……」
 返事はない。
 だから菫はそのまま続けた。
「まぁ、そういうことでさ。わたしも、今日からあなたのこと、もっとよく知ろうって頑張るから」
「……」
「口だけ教師の言うことなんて、って思ってるかもしれないけど、わたし、それなりに本気だよ?」
「……」
「来栖くんも、きっとね」
「っ」
 カーテン越しにびくっとした反応が返ってきたことに、菫がくすりと笑う。本当に、来栖くんとこの子の間になにがあったんだろうな、と思うと、小さな笑いがこみ上げて来たのだ。
「だから、まぁ、これからもじゃんじゃん保健室きてね。歓待するよ」
 保健室で歓待もなにもないだろう――、伊子はそう反発したい気持ちを、けれど押さえ込んだ。
 だって悪意を向けられるのには慣れている。でも、今カーテン越しに対峙している小さな養護教諭の言葉には悪意がなくて、家族以外に向けられるには身慣れない好意というものを感じてしまったから。
 好意に晒されるのには慣れていない。だから伊子には、
「……勝手にすれば」
 そう返すのが精一杯だった。
 いったい直巳になにがあってあんなことを言い出したのか、自分は嫌われたんじゃなかったのか、あの人は自分とのことを笑い種にして言い触らしてるのではなかったのか、そんなことが頭の中をぐるぐる巻いてしまって、菫にむける言葉に教師という人種に対する悪意をこめるだけの余裕は、とてもじゃなけどありはしなかった。

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