ああ、学園一可愛い性格ブスな君よ、ご機嫌麗しゅう?

 永塚からの告白を受けて一週間が過ぎた五月も終わりの金曜日。明日からは週末ということもあってか、この日の僕の目覚めはとてもすっきりとしたものだった。目覚まし時計嫌いの僕としては、こうして誰かに起こされたというのとは違う、能動的な起床というのは格別に気分がいい。
 ――そういえば昨日の寝る前、歩巳に起こしてもらうように頼んじゃったけど、結局取り越し苦労だったな。
 そんなことを考えながら階段を降り、一階の居間に入る。
 と、そこでリビングのテーブルの上に一枚のメモが置かれているのに気がついた。なんだろう、とメモを取り上げ、そういえば家の中がやけに静かなのに気がつく。はて、両親がいないのはまぁ夫婦赴任中だからしょうがないとして、和巳と歩巳はどうしたんだ?
 疑問を覚えるが、さておきメモを読むことにする。
『なおにぃへ。
 かずねぇとの二人っきりの朝を邪魔されたくなかったので起こしませんでした。朝食はなおにぃが起きてくるのが遅いのでかずねぇが片付けてしまいました。一応かずねぇが出掛けになおにぃを起こしに行ったみたいだけど、顔中真っ赤にして「お兄ちゃん下品! あんなの起こせるもんか!」と怒っていました。何があったか教えてくれませんでしたが、かずねぇの嫌がることをしないで下さい。
 追伸、先日学校で保健の授業をやりました。男の人が睡眠中に勃起するメカニズムもそこで教わりましたが、正直勘弁して下さい。――歩巳』
 僕は死んだ。
 時計の針は午前十時を指していた。



#03 ≪恋のバンカーバスター≫



 まだ小学生の妹が放った精神破壊爆弾からようやく立ち直って午前十一時、言い訳の余地もなく圧倒的に遅刻である。
 ここまで来るともう焦りとかそういうのとは無縁な、ある意味で悟りの境地に達する。これだけ遅刻しちゃったんじゃあ、今更あくせくしたって仕方がない。のんびり構えてのんびり登校しようってなもんだ。
 僕の家から学校までは徒歩で片道二十分。日ごろはあんまり気をやらない街の景色なんてものを眺めながらゆっくりと歩く。都心に通勤する世帯主向けのベッドタウンとして開発が進められた薬塚市の昼は、驚くほど静かだ。車の通りも驚くほど少ないし、駅前にでも行けば話は別だろうが、こういう住宅街の中を歩いていれば、雑踏などというものとは無縁でいられる。この街の昔を知る人に言わせると、それもこれも全部、蓮淵一族が中心になって行った市街整備計画のおかげなのだそうだ。
 取り立てて物静かなものを好む傾向がある、とかそんな殊勝な感性を持つような僕ではないけれど、あんなことがあった今朝だから、こういう静けさが今の心境にはとても優しい。
 あれ、でも思い出したらまた胸が痛くなってきたぞ。ああ畜生歩巳のやつ、僕のことをどう思おうと好きにするがいいさ、でもそんな心の声を赤裸々に僕に聞かせるのは止めてくれ、マジで、お兄ちゃん死んじゃうから、精神的に。
 今更かもしれないが、僕には二人の妹がいる。
 上の妹の名前は来栖和巳。現在中学二年で思春期で反抗期だ。ほんの一年前まではお兄ちゃんお兄ちゃんと慕ってくれていたものだが、僕が隠し持っていたアダルトムービーのフォルダを発見されて以来冷戦状態が続いている。どころか最近は僕のパソコンを勝手に弄って通信履歴まで監視している節がある。ああいう年頃だし仕方ないと言えば仕方ないのだろうけど、正直勘弁してください。
 下の妹は来栖歩巳。現在小学校六年生だが、小学校六年生にして身長一七〇センチというジャイアントガールである。ランドセルが似合わないこと甚だしい。乳もでかい。その歩巳はどうしようもないお姉ちゃんっ子なので、兄である僕とは生まれてこの方冷戦状態だ。しかも最近は年相応に知恵もつけてきて、今朝みたいな変化球で僕を打ちのめしに来る。そう、今朝みたいな――ああ、胸が痛い。
 現在来栖家の両親は関西へ単身赴任の父に母がくっついて行ってしまったため、長期に渡って家を空けている。薬塚市一帯は国際移民流入による地価高騰で高級住宅街化が進み、おかげで治安がすこぶるいい。だからこそ、年頃の子供たちを置いての出張に踏み切ったのは分かるのだか、こういう状況になるとやはり両親には傍に居て欲しかったなぁ、というのが偽らざる僕の本音だった。
「憂鬱だ……」
 はぁー、とため息をついて脚を止めたときである。
 こつん、と僕の後ろで、一つ遅れて止まる足音があった。はて、と後ろを振り返り、
「うっ……!?」
「……」
 そこに、微妙に困ったような表情で佇む永塚伊子の姿があった。
 ――え!? なんで!?
「……」
「……」
「……お、おはよう」
「……」
 とりあえず挨拶してみたが、返事はない。
 この一週間というもの、永塚のことを知ってみようと思っていろいろと行動をしていたが、なんだかんだと噂以上のことを知ることは出来ず、間接的アプローチに限界を感じ始めていたというのが最近の僕である。
 間接的アプローチが駄目なら直接的アプローチを――、というのは当然の帰結だし、そうするしかないよなぁとは思ってはいたが、これは些か不意打ち過ぎやしないだろうか。背中につつ、と冷たいものが伝う。想定外の事態過ぎて冷や汗が出る。
「ひ、久しぶり、だな。永塚も、これから学校?」
「……」
「僕もこれから学校、なんだ。寝坊してさ。はは、妹に起こすように頼んだんだけど、起こしてくれなくて」
「……」
「はは、は……」
「……」
 き、厳しい。
 なにか一言くらい反応を返してほしいと思うのも僕の求めすぎなんですか、神様?
 軽く現実逃避したい心境に駆られるが、とはいえここで背を向けてはいつかの二の轍を踏むことになる。それでは駄目だ。この一週間が無駄になる。
 今の僕が永塚に対して話しにくい、という思いを抱いてしまっているのは、それは正直言って後ろめたさから来るものだ。永塚に対しての怯えはない。今週一週間かけて僕は永塚のことを色々と自分なりに調べてみたけれど、結局噂以上の事実なんてのは殆ど見えてこなかった。
 それは永塚のことを話題に上らせる誰もが誰も、永塚に対しての先入観から来る怯えか、或いは基本的に良い子揃いの御蔵学園における異分子の存在を面白がって、彼女の話題を口にしていた。そういう噂の仕方というのには面白さ、興味関心をあおる部分にだけスポットが当てられていて、情報としては信憑性に欠ける。面白くない部分については口にしないのが野次馬だからだ。
 僕がここで永塚に背を向けることは、僕はこの一週間で僕が話をした、そういう無責任な野次馬たちの仲間入りを果たすことに等しい。だってそうじゃないか。それじゃあ僕の彼女についての認識は、結局噂の上だけでの永塚伊子像に終始してしまう。それを善しとしないからこそ僕は彼女について知ろうと思ったんだ。だから今ここで永塚に背を向けるわけにはいかない。
 よし、と僕は気合を入れる。
 照れ隠しに頭を掻いているようにカモフラージュしてこっそり俯けていた顔を上げ、
「あのさ、よかったら……こんな時間だけど、学校、一緒に行かないか」
 そう提案してみた。
 永塚は一瞬虚を突かれたような顔をして、それから顔を俯かせる。そしてそのまま、僕の脇を抜けて歩き出した。
 ――駄目か。
 僕なりに精一杯の勇気ではあった。それをスルーされて、かなり切ない気持ちになる。ああ、なんだかあの時、僕が永塚の告白をスルーして、そんなことよりと言わんばかりに謝り倒したときの、あの時の永塚の気持ちが分かる気がする。
 とほー、と肩を落としたそのときだった。
「……センパイ」
 あまり通りの良くない、少しもごもごとしたような声が僕の耳朶を打った。
 慌てて振り返ると、数歩先を行った永塚が立ち止まり、けれどこちらには顔を見せずにその場に留まっていた。
「永塚?」
「学校、一緒に行くんじゃないの?」
 え――?
「いい、のか?」
 声が少し掠れてしまう。
「別に、駄目なんて言ってないじゃない。そりゃ、そもそも何も言ってないだろって言われたら、あたしだって何も言えないけど、でも、駄目とだって言ってないから」
 永塚はそこまで振り向かないまま、僕に顔を見せないまま言った。
 そこで彼女はちらり、と顔を半分だけ振り向かせる。
「だから、一緒に行こ?」
「――っ」
 永塚伊子の肌は白い。先天的な障害の一種だそうで、色素自体が人より少ないのだとか、そんな病気だという話を聞いたことがある。そんな彼女だから、顔を半分だけ振り向かせた、少しだけのモーションでも、その頬が、耳が、真っ赤に染まっていることを僕は確認出来てしまった。
 ――照れて、いるんだろうか?
 一瞬ぽかんとして、ふと、ゆっことのメッセのやり取りを思い出す。
『なおくん、さっき自分で言ったじゃないの。『センパイのこと好きだった。多分、今でも――』、そうその子が言ったって』
 永塚の告白から一週間が経つ。あれから僕と永塚は直接会って言葉を交わしたことはない。今日のこれが一週間ぶりの邂逅。
 一週間ぶりに会った永塚に対して、かつて抱いていた先入観が完全に抜け切ったとは、まだ思えない。でも、噂そのもののような単なる恐るべき不良少女というだけではないということは、理解しつつある。
 僕は一歩を踏み出して永塚の隣に並ぼうとした。ところが、
「あ、ちょ、待ってセンパイ!」
 片手で制され止められる。
「え? ――あ、なに?」
「その、横、並ばないでくれると助かるんだけど」
「なんで?」
「えっと、その――うぅ……察しろ!」
 言って、ドンッと僕は突き飛ばされた。
 思わず「うぉっ!?」っと悲鳴を上げて尻餅をついてしまう。「やばっ!」と、これは永塚の声。
「ご、ごめんセンパイ! つい――」
「あ、いや、大丈夫だか――う?」
「え?」
 言いかけ、そこで僕は改めて永塚の顔を見た。頬が朱に染まってるのは知っていた。けれど、こんな、顔中が真っ赤になって、耳まで赤くしてるとは思っていなかった。よく見ると、首まで赤い。
 僕がぽかんとした顔をしたので、永塚も隠そうとしていた真っ赤な顔を見られたことに気づいたんだろう。ハッとして顔を隠す。
「あ、いや、センパイ、これは、その」
「……」
「えーと、ほら! あたし、こんな肌でしょ!? だからほんのちょっとしたことでも顔に血が集まったらすぐにこんな風になっちゃって、赤面症っていうのか、よく知らないけど、だからその、別にたいしたことがあったわけじゃなく、えと!」
 わたわたと言い訳する永塚。
 なんというか、意外と言えば意外すぎる彼女の一面を、今まさに僕は見ている。なんというか、これは、これは……。
「なん……でもないからっ! 別にっ! それじゃ!」
 可愛くないか? と思う間もなくダッと踵を返して永塚は走り去ってしまう。
 対する僕だが、こちらはというと唐突に突きつけられたあまりの事態に呆然として、その後を追おうという考えも浮かばなかった。
 ――なるほど、これは確かに……。
 百聞は一見に如かず、という言葉があるけれど、実体験としてその言葉を痛感するのは初めてのように思える。
 御蔵学園のアンタッチャブル、麗しのプリティデビル、学園一可愛い性格ブス――と、永塚に関する百の噂を聞いた僕だけど、確かにそれは一見には及ばなかったようだ。少なくとも僕の聞いた噂の中の永塚伊子という少女は、あんなふうに取り乱したりするような感じじゃなかった。
「学校、一緒に行くんじゃなかったっけ?」
 僕はなんとも小気味のいい苦笑に頬を緩ませて立ち上がる。パンパンとズボンの尻を払って、永塚の後を追うように学園へ向かう道を歩き出した。

※※※

 結局僕が教室の扉を開けたのは、四時間目も半ばを過ぎた頃だった。
 正直、授業中の教室に途中から入っていくというのは結構気まずいものがある。ところがいざ入ってみた教室内は自習中で、僕の心配は杞憂に終わったのだった。
 がらりと扉を開けて中に入り、クラスの視線が集まる。僕はそれを苦笑いでいなして、自分の席に着いた。
「今日はまた、ずいぶんと重役出勤でしたのね?」
 隣の席の愛依香さまがそんなことを言ってくる。
「おはよう……っていう時間でもないのかな? でも、とりあえずおはよう」
「はい、おはようございます、来栖さん」
 にこりと微笑んで挨拶してくれる愛依香さま。今日も変わらず綺麗な笑顔だ。
「一応確認だけど自習だよね? 四時間目って授業なんだったっけ?」
「四時間目は麻生先生の公民ですね。課題プリントは机の中に入れておきましたよ」
「ありがと」
 机の中を漁ると、数枚のプリントに紛れて確かに公民の課題プリントが混じっていた。取り出して内容を流し見してみるにつけ、「下手な鉄砲(以下略」がモットーである麻生先生らしい問題配置に苦笑する。公民の授業担当かつ我が二年八組の担任教師である麻生広永先生の課題プリントは、その難易度の温さで有名だ。ただし設問数は多い。
「どういたしまして。ところでもう授業時間半分過ぎてるんですけど、間に合わせられますか?」
「提出はいつまで?」
「授業終了時に回収するみたいですけど、事情を説明すれば昼休みが終わるまでくらいは待ってくれるかもしれませんね」
「微妙だなぁ……毎度のことながら問題は簡単だけど数が多いし」
「でしょうね。――ふふ、ねぇ来栖さん? よかったら私のプリント、見ます?」
 クスリ、と流し目で僕を見つめてくる愛依香さま。誘うような目つきにドキリとするけど、僕としてはそれよりも彼女がそんなことを提案してくるほうが意外だ。
「いいの?」
「ええ、もちろんタダというわけではありませんけど」
 そう来たか。
「……言っとくけど、お金ならないからね」
「あら、別に来栖さんから取り立てなくともお金になんて困ったことありませんわ」
「それはそれで嫌味だな」
「まぁそう仰らないで。ただちょっとね、労働力を提供して頂ければそれで結構なんですよ」
 労働力?
「どういうこと?」
「六月の終わりに生徒会総選挙があるのはご存知ですよね?」
「ああ、副会長で出馬するんだっけ。それ絡み?」
「直接は関係ないんですけど……その総選挙に先立って文化祭が行われるのも承知してますよね?」
「そりゃもちろん」
 この御蔵学園において、最もイベントが集中する時期はというと実は六月から七月にかけてである。初等部から大学までの一貫教育が自慢の御蔵学園であるが、外部の大学への進学も同時に推奨しているため、三年次の七月以降は受験態勢に入るのだ。そのため、文化祭のような長期の準備期間を必要とするイベントは前期授業期間中に終えてしまうようカリキュラムが組まれているのである。
 生徒会総選挙が同じ時期に行われるのも同じ理由だ。受験にとっての山場となる夏休みを前に、三年生の生徒会役員を煩雑な仕事から解放してあげようという意図がある。
「で、文化祭がどうかしたの?」
「ええ、実は今日、文化祭委員会の中間報告会議があるんですけど、文化祭委員の山田くんが早退してしまいまして……それで、その代役を来栖さんにお願いしたいんですよ」
「代役ですか」
「代役です」
「まぁ、別に悪くは無いけど、確か文化祭委員って各クラス二名選出でしょ? 男女ペアで。山田が早退したのは分かったけど、女子の委員はどうなってんの?」
 というか女子の文化祭委員って誰だっけ?
「女子の委員は佐伯さんですね。でも彼女、陸上部のインターハイ県予選が今週末だとかで、昼休みも調整に使いたいらしいんですよ」
「えぇ? ちょっと、そんなことになるなら最初から委員なんてなるべきじゃなかったんじゃないの?」
 と、流石にここばかりは声をひそめて言う僕である。
「佐伯さん自身も県予選に進出できるとは思ってなかったみたいなんですよ。本人が一番驚いてるみたいで……イレギュラー的なことですから仕方ありませんわ。というか、本来ならここは喜ぶべき場面でしょう? クラスメートが活躍してるんですから」
「いやまぁ、そうなんだけど」
 流石に不謹慎だったか。窘められてしまった。
 ぽりぽりと頭を掻いていると、愛依香さまグッと身を乗り出して、僕の耳元に口を寄せてきた。息の掛かる距離感にどぎまぎする。
「それに、ほら……私、来栖さんには生徒会執行部に入ってもらいたいって言ったでしょう?」
「え、う、――ん、まぁ」
 そういえばそんなこともあったなぁ。永塚のことばっかり気にしてたから、すっかり忘れてたけど。
「あれからもうすぐ一週間ですか。でも、まだ色よいお返事、聞かせてもらってないですよね?」
「……」
「だからね、尻込みしてる来栖さんに、生徒会執行部がどんなところか、知ってもらいたいなって思ってるんです。今日のお昼の会議、集まるのは文化祭委員ですけど、主導するのはあくまで生徒会執行部ですから」
 いかがでしょう? こてん、と小首を傾げつつ聞いてくる。はっきり言うけどその聞き方は卑怯だと思うよ、愛依香さま。
 僕は参ったとばかりに降参のポーズを示す。
「じゃあ、来て頂けるのですか?」
「ま、仕方ないよね。他ならぬ愛依香さまの頼みでもあるし」
「あら嬉しい。来栖さんはいい男ですわね」
「褒めてもなんにも出ないってば」
 愛依香さまはくすくすと笑ってプリントを寄越してきた。
「どうぞ、来栖さん。存分に参考になさってください」
「ありがと」
 僕の返事に笑顔を返すと、愛依香さまはカバンから取り出した文庫本を読み始めた。姿勢がいいからそうして何気なく本をよんでいるだけでも様になる。
 さて、それじゃあプリントを写させてもらいますか。授業残り時間は二十分くらい。まぁなんとかなるだろう。


 そして昼休みになる。
 今朝はあんなことがあったので弁当も何も持ってきていない僕は、潔く昼食は断念した。お腹が減っていないと言えばまったくの嘘になるが、さりとて我慢できない程でもない。
「愛依香さま、会議って何時から?」
「ええと、あと二十分ほどですね」
「そんなに間があるの?」
「お昼ご飯を食べるくらいの時間は、やっぱり必要ですもの」
「そっかぁ」
 まぁそりゃそうだ、という話だ。誰が悪いという話でもないが、なんとなく肩を落としてしまう僕である。
「来栖さんはお昼、どうなさるんです?」
「どうしようもこうしようも、お弁当もってきてないから……学食行ってくるよ、今からだともう席空いてるか微妙だけど」
 肩を竦めて言う。
「そうですか? よろしければ私のお弁当、分けて差し上げてもいいのですけど……」
「ただじゃないんでしょ?」
「失礼な来栖さん。今度ばかりは純粋に善意からの提案ですのに」
「これは失礼を」
 カバンから財布を出して立ち上がる。愛依香さまは少しだけ不満そうに頬を膨らませた。ジト目で僕をにらみつけてくる……切れ長な瞳の愛依香さまだから、そういう仕草には妙な凄みがあって怖い。
「んじゃ、そろそろ行くよ。いい加減席がなくなっちゃう」
「はいはい、気をつけて行ってらっしゃいませね。会議は半からですから、遅刻しないよう」
「了解」

※※※

 学食は案の上の混雑具合を見せていた。
 ここ、御蔵学園の学生食堂はそれなりに広い。高等部の学生総数が二四〇〇人もいるのだから、食堂にもそれなりの広さが求められるのは当然だ。食堂館という専用の建物が用意されている辺り、普通の公立高校では考えられない。収容人数は全校の三分の一、八〇〇人程度を想定しているのだとか。
 それだけの大人数を収容可能な食堂館だが、それでも昼時の混雑とは無縁ではいられないらしい。どうせ食べるなら冷めた弁当よりも暖かい定食の方がいい、という人も多いだろうし、そうでなくても止むを得ない事情でお昼に弁当を持ってこられない生徒もいる。学生寮暮らしの生徒なんかがそうだ。
 そんな生徒たちで混み合う学食の中で、忽然と空白(空席)地帯が存在したのには、それなりに理由があった。その理由とは、つまり――、
「や、永塚」
「――え? あ!?」
 特徴的な銀白の髪に黒いバンダナを巻いた小柄で凶暴な女の子、御蔵学園のアンタッチャブル、永塚伊子がそこに座ってうどんを啜っていたからである。永塚はここ、学食で誰かに話しかけられるということ自体想定していなかったのか、驚きに目を見開いて僕を凝視した。
「ここ、いいかな?」
 そう言いつつも返事を待たず彼女の正面に定食のトレイを置く。そのまま椅子を引いて腰を下ろした。
 ……なんというか、我ながら信じられない大胆さだ。つい先日まで永塚に関しては他の学園生たち同様、一歩以上に距離を取っていたくせに……それどころか、あんなことがあって一層萎縮してたっていうのに、今の僕の大胆さをきっと先週までの僕は想像も出来なかったに違いない。今朝のことがあったから少し気安くなって、それできっと、気も大きくなってるんだろうな、というのが僕の自己分析だ。まぁ、だからどうしたという話でもないが。
 ぽかんとしていた永塚はそこでようやく現実を認識したのか、ハッとした顔をしてそっぽを向いた。というか、顔を背けた。そして永塚、呻くように言う。
「な、なんでここに……」
「学食にするか購買でパン買うかで悩んだんだけどねぇ」
「でも、センパイっていつも弁当の筈じゃ」
「……むしろ、なんでそんなこと知ってるんだー、とか聞き返したくなる気分なんだけど」
「うっ!?」
 いや、本当になんでそんなこと知ってるんだろう? 僕と永塚の接点なんて、一週間前に彼女に告白されたというそれ以外ないものと思っていたけれど。
 僕は永塚のことを殆ど知らない。知るための努力をしている最中だ。だが、永塚の方は僕のことを、僕が思っている以上に知っているということなのだろうか。
 僕がそんなことを胡乱に考えている間に、永塚の方はといえば頬を朱に染めて下唇を噛んで悔しそうにしていた。
「し、質問に質問で返すっていうのは、卑怯じゃない?」
 なにもそこまで悔しそうにすることはないんじゃないだろうか――悪いことをしたような気分になってくる。
「あー、その……ごめん……」
「……別に」
 反射的に謝ってしまうと、永塚は詰まらなそうにそっぽを向いた。それからちらりと横目で僕を見て、聞いてくる。
「……食べないの?」
「え?」
 永塚はすっと目を細めて言葉を続けた。
「そのご飯。なんでセンパイが今日お弁当じゃなくて、なんでまたよりにもよってあたしと一緒に食べようなんて思ったのか知らないけど、その定食は食べるために持ってきたんでしょ?」
「ああ、うん。食べる、食べるよ」
 永塚の視線は妙に鋭くてやはりその目で見据えられるとどうにも心が浮き足だってしまうものがある。髪と同じに色素の薄い彼女の瞳はぎょっとするくらいの赤だ。今はカラーコンタクトやなんやかんやでそういう色の瞳も全く珍しいというわけじゃないけれど、天然自然が不自然に生み出したその赤を前にすると、僕はどうしても居心地の悪さのようなものを覚えてしまう。
 これは僕が彼女に抱いている罪悪感のようなものにだけ起因している問題というわけではなさそうだが、果たして何なんだろう。
 僕はそんなことを考えながら定食の味噌汁を啜った。学食でご飯を食べるのは久しぶりだけど、相変わらず無駄に美味しい。出汁がよく効いているから香りもいいとくる。続いて箸を伸ばしたトンカツもそうだ。衣ばかりが分厚いのは他の学校の学食と同じかもしれないが、どういう調理をしているのかその衣が美味いのだ。去年なんでか愛依香さまが弁当を持ってこなかった日があって、そのときに一緒に学食で昼食を取ったのだが、正真正銘のお嬢様育ちの彼女がトンカツを一口齧った後「シェフを呼びなさい」とか言い出したので、僕も含めてそのとき同席した面々は爆笑した覚えがある。
 あのときの愛依香さまは怖かったよなぁ……と、思い出すにつけ苦笑してしまう僕だった。だって学校の学生食堂でシェフを呼べ、はないだろう?
 なんてことを考えていると、僕の対面に座った永塚がなんだか微妙な目で僕のことを見つめていることに気がつく。
「な、なに?」
 いけない、一瞬目の前の彼女のことを忘れてしまっていた。
「……センパイって」
 そこで彼女は一旦言葉を区切った。
 思わず唾を飲み込む。だって永塚から話題を振って来るって珍しい、というか初めてじゃないだろうか。――いや、そもそも今までそんなまともに話したことも無かったんだけどさ。
 いったい何を言われるんだろうと僕が唾を飲み込むと、彼女はこんなことを言うのだ。
「センパイって、ご飯食べる前にいただきます、って言わない人なんだ……」
「は?」
 思わず間抜けな声が漏れてしまう。
 すると永塚はハッとしたような顔でまたそっぽを向いた。
「……別に、なんでもないから。気にしないで」
「……いや、気にしないでと言われても」
 実際取り立てて気になるわけでもないが、なんなんだろうこの子は。
 僕はとりあえず改めて「いただきます」と口にしてご飯を再開した。永塚は僕がいただきますを言った瞬間、僅かだが僕を眇めた目つきで睨み付けてきた。そしてまたうどんを啜り始める。
「……」
「……」
 お互いに会話をするわけでもなく、ただ対面に座って僕たちは昼食を取った。ただ、やはりお互い相手が気にならないわけはなくて時々思い出したように視線を交わす。
 永塚は僕と視線が重なると慌てたようにそっぽを向く。僕は永塚が視線を逸らすのを待ってから定食のトレイに視線を戻す。
 この奇妙な食事の風景が周囲の注目を集めないわけが無かった。僕をもそもそと定食を口に運びながらも、自分の背中や肩と言わず、全方位から視線を向けられるのを感じていた。それはきっと永塚が学内において、よくない意味での有名人だからこそだろう。そして永塚が有名な分だけ、興味の対象は僕にも向けられるようだ。
「おい、アレ誰……?」
「二年だろ? なんでアンタッチャブルと飯食ってんだ?」
「なにあの人、あの人も怖い人なのー?」
「もしかしてアンタッチャブルの彼氏とか? こわー」
 きっと話してる当人たちは声を潜めてるつもりなんだろうけど、聞こえてる、ばっちり聞こえてるから。まぁそれでも声を潜めようと努力してる方ならまだよくて、中には露骨に指差したりしてる奴もいる。僕らのことが気になるのは分かるけど、流石にそりゃ失礼ってもんじゃないか君たち。
 こんな風に好奇の視線に晒されて、永塚は怒ってるんじゃないだろうか。僕は恐る恐る視線を上げて永塚の様子を窺い見た。
「……」
 ところが永塚は特に気にした素振りもなくうどんを一本ずつ丁寧に啜っていた。音を殆ど立てない、意外と上品な食べ方がそれこそ意外だ。
「そりゃ、そうか」
「……? なんか言った?」
「いや、別に」
 唐突に、永塚からすれば脈絡もなく呟いた僕の言葉に彼女は律儀に反応して顔を上げた。けれど僕の返しが詰まらなかったからか、「あ、そ」とだけ言ってまた食事に戻ってしまう。
 永塚はやっぱり、いい意味でも悪い意味でも注目されるのに慣れているんだろうなと思った。平素として落ち着いているように見える。対する僕はといえば浮き足立っているのか自分でも分かるくらいに浮き足立っている。だって箸の進みがこんなに早いんだもの。周囲の注目を集めているのに気づいてからこっち、食べている料理の味なんか分かりゃしない。
 そうこうしてる内にトンカツを食べ終わり付け合せのキャベツの千切りを食べ終わりマッシュポテトのサラダを食べ終わり味噌汁を飲み終わりご飯を食べ終わりして、気づけば僕はお新香を突付いていた。
 なんというか、自分自身に呆れてしまう。衆目を浴びるような状況に慣れていないとはいえ、年下の女の子が落ち着いている様子なのに、僕と来たら会話をする余裕もなくこんな有様だ。
 呆れが生む深いため息をついて、僕は白菜のお新香、その最後の一切れを飲み下した。これで定食のトレイの上はすっかり綺麗に空になってしまう。
「……ごちそうさまでした」
 箸を置いて僕がそう言うと、永塚は「えっ!?」と顔を上げた。僕の顔とすっかりお皿が綺麗になってしまったトレイを交互に見比べ、驚いたような顔をする。
「センパイ……食べるの、早くない?」
「う゛」
 確かに早かったわけだが。
「そ、そうかな」
「だって、センパイが席についてまだ」ちらりと壁に掛かった時計を見やり、「まだたったの五分だよ?」
 見れば僕より先に席について食べ始めていたはずの永塚の丼の中には、まだ半分以上麺が残っているように見えた。
「僕が早いっていうのもあるかもしれないけど、永塚は永塚で食べるの遅すぎない?」
「……別に、いいじゃん遅くても。これでもあたし、女の子なんだし」
「……」
「なに?」
「……いや」
 ……確かにそれはそうなんだが、永塚の口から聞くと別の国の言葉のように聞こえてしまう僕はまだまだ彼女に対する理解が足りないんだろうなぁ。
「まぁ、食べるのが遅いのは結構だけど、あんまりゆっくりしててもうどんのびちゃうよ?」
「変にコシが強いのより、のびたうどんの方が食べやすくて好きなんだけど。コシが強いのって硬くて嫌い」
「よく噛んで食べないと健康になれないぞ」
「それ、定食五分で片付けるセンパイには言われたくないんだけど」
「……」
 ジト目を寄越す永塚である。うむ、返す言葉もないなぁ。
「きょ、今日は急いでたから特別なんだよ」
 苦し紛れだが嘘というわけでもない。十二時半に生徒会会議室集合と愛依香さまに約束させられているのも確かなのだ。時計を見ればもう十二時二十分だ。あと十分の猶予があるとはいえ、余裕があるとは言いがたい。
 浮き足立ってただ意味もなく箸を早めてしまったことに対するエクスキューズが出来てしまった。なんとなく、胸が重い。
「……急いでたって?」
「ちょっと用事があってね、生徒会の会議室へ半に集合なんだ」
「え? センパイって、生徒会なんてやってたっけ?」
「……いや、やってないけど」
 やってないけど、なんで永塚はこうも当たり前のように僕の個人情報(という程でもないかも知れないが)に通じているのだろう。
「今日は文化祭実行委員会の会議があるんだと。ところがうちのクラスの委員……あー、二人いるんだけど、片方は早退、もう片方は部活の絡みで出席できないとかで、代理で会議に顔出す羽目になっちゃってさ」
「……ふぅん」
 気の無い返事をして、永塚はまたそっぽを向いて、
「大変だね」
 素っ気なく告げる。
「まぁ、そんな文句言うほど大変でもなさそうだけどね。会議に顔出すだけだし、今日は臨時の代理だから」
「ふぅん?」
「永塚のクラスは文化祭の展示、なにやるんだ?」
「知らない。きょーみないから聞いてなかったし、聞いてたとして、あたしが参加する余地なんて、ないでしょ」
 そっぽを向いたまま永塚は詰まらなそうに言った。
 ……まぁ、確かに。クラスで永塚がどう思われてるのか詳しい所は知らない僕だが、ここ一週間で聞きかじった噂を元に考えれば、永塚のクラスメートたちが彼女のことを持て余しているだろうことは容易に想像がつく。そんな雰囲気のクラスで文化祭に意欲を示してみたって、永塚にとっては面白くもないだろうし、クラスの連中にとっても嬉しい事態にはならないだろう。
 可哀想だな、と思った。
 別に文化祭が学園生活の全てなんてそんなわけはもちろんないけど、そういう交流を通して生まれる関係性、まぁ、らしい言葉で言えば友情とか絆とか、そういうものっていうのは確かにある。クラスが一丸になって一つの目標に向かうなんていうのは酷く陳腐で青臭い言葉だけれど、共通目標の達成に向かう活動の中で生まれる連帯感というのは、友情とかそういう類のものを培う土壌になるのは間違いないのだ。
 興味がない、の一言でそういう土壌を肥やす努力を放棄するというのはもったいないことだ。今現在一年生の永塚は、都合三年間、長くすれば大学も含めてあと七年間をこの御蔵学園で過ごさなくてはならない。それだけの長い時間を友達も作らず孤独に過ごすというのは、いかにも可哀想だ。
 友情だけが学園生活のすべてではない。もちろん学業が全てでもないし、運動が全てというわけでもない。学園、学校というのは社会の縮図だ。社会に出るための準備期間としての学園生活というのは、その生活の中で社会生活を営む上での必要知識、経験、体験を身に着けることこそが本分だと僕は思っている。
 ――まぁ、思っているというか、これも愛依香さまにそう言われての受け売りなんだけど。
 学業や運動、人との触れ合いの経験。どれか一つに特化するのも悪くはないだろうけど、誰もがそうなれるわけでもない。ならば学生生活で身に着けるべきはそういったそれらの総合的かつ平均的な実体験だ。
 日々の生活の中で将来に向ける具体的なビジョンがなくてもいい。生活が漫然として、詰まらないと感じてしまうものでも――まぁ、良くはないかもしれないが、必ずしも悪いと言い切れるものでもない。詰まらない学園生活でもなんでも、とにかく集団の中で過ごすという経験を積むことが、言い方は悪いかもしれないけれど、社会という大きな機関の中で円滑に回ることのできる歯車として必要な経験を積ませることこそが、教育機関の本義だ。教養は最低限それなりのものがあればそれでいい。
 そうとなれば、永塚のような孤立の仕方は問題があると感じてしまうのが僕という人間だ。このまま育ってしまえば将来苦労するだろうな、なんて思ってしまう。僕がこんなことを考えているのが永塚に知れればきっと「大きなお世話だ」と言われるだろうけど……。
「……はぁ」
 僕は嘆息して首を振った。
 僕はまだ彼女のことをよく知らない。噂だけで知った彼女のことが、彼女の本当だとも思えないから実際に話をして知ってみようって、そう決めて日も浅いのだから当然と言えば当然だ。そんな僕が自分の思い込みだけで何を思い何を言ったとして、実際それは間違いなく大きなお世話以外の何物でもないのだろう。
 ちらりと壁に掛かった時計を見る。時計の針はそろそろ十二時の二十五分を示そうかというところだった。
 僕はトレイを持って立ち上がる。
「そろそろ行くよ。永塚、席ありがとう」
「ん……別に」
 やはり素っ気ない口ぶりだ。意図的にそうしているだろうことがなんとなく分かる。さっきからそっぽを向いたままだが、時折チラチラとこちらの様子を伺うことからそう思う。
 なんとなく苦笑して、僕は少しだけの勇気で少しだけ彼女に向かって踏み出してみる――ああ、物理的にじゃなくて比喩的に、そう、立場とか心とか、そういう意味で。
「永塚」
「……なに?」
 僕はポリポリと頭を掻きながら顔を伏せた。面と向かって言うのは、少し照れる。
「よかったら、また……一緒に昼飯食べような」
「っ!?」
 ベキッ。
 鈍い音がした。何かと思って顔を上げれば、よほど驚いたのか、永塚は手に持った割り箸を握り折っていた。
 ……。
 ……いや、驚いてそうしたんですよネ?
 僕が内心冷や汗をかいて永塚の動向を伺っていると、彼女は一つ小さく舌打ちしてへし折った割り箸を机に置いた。そして言う。
「……知らない」
 続けて、
「あたし、普段弁当だもん」
 言い残して彼女は席を立った。トレイの上の丼には、まだうどんが半分近く残っているように見えたのに。そして僕の方に手を出す。
「こっち、寄越しなよ」
「え?」
「トレイと……食器。急いでるんでしょ? 返しといてあげるから、あたしが」
 思わぬ提案だ。
「いいの?」
「いいよ、別に。それくらい手間じゃないし」
 永塚は僕のトレイを受け取ると、いとも簡単に僕に背を向けて歩き出す。
「一応言っとくけど、あたし学食なんて滅多に来ないから。センパイが何を思ってあんなこと言ったのか知らないけど学食に来たって無駄だよ。い、いつもは中庭の隅のベンチで食べてるし」
 去り際、永塚は少し慌てたような口調でそう言い残した。
 そしてそれを見送る僕は、今の去り際の台詞をどう解釈したものかと頭を悩ませてしまう。
 ――永塚って、ツンデレ?
 だとしたら、さっきの言葉を額面通りに受け取ってしまうのは、いかにもミステイクだよなぁ。僕は頭をポリポリと掻いて、このことは家に帰ったらゆっこの判断を仰ごう、そう決めてとりあえず学食を後にした。

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