暫定的回答にプゥ


 夕暮れ時の文芸部の部室に二人の姿はあった。少年と少女、実は恋人たちである。
 少年はパイプ椅子をぎしぎしゆらゆらと落ち着きなく鳴らしながら携帯電話を弄んでいる。ピ、ピ、ピ、と間断なく続く音から察するにメールを打っているのだろう。少女は長机に向かってノートに書き物をしているようだった。けれど机の上に開かれているのはノートだけで、教科書、参考書の類は広がっていない。

「ねぇ」
「あん?」
「うるさいわ、携帯電話」
「別に話してるわけじゃないんだけど?」
「ボタンを押す音がうるさい」
「へーい」

 少女が顔も上げずに言うと、少年は仕方なくメールを打つのをやめて、携帯電話をマナーモードに切り替えた。それを確認して、またメールを打ち始める。こんどはぷちぷちと、携帯のボタンを押し込む音が響き始める。これはこれで、

「うるさいわ」
「なにが?」
「携帯電話」
「なんだよ、マナーモードにしたぞ?」
「ボタンを押し込む音が煩わしいの」
「無茶言うなよ、この音までは消せねーって」
「だったらメールとかするの止めて」
「なんの権利があってそんなこと言うかな」
「校内では携帯電話の電源は入れちゃだめ、生徒手帳にも書いてあるわ」
「へー」

 気のない返事を返す少年に冷たい視線を送った。少年はどこ吹く風といった風情でまた携帯電話をいじった。すると、少女の脇に置かれた通学鞄の中で、ぶーんと携帯のバイブレーターが振動する音がする。はっとして少女、眉間に皺を寄せて少年を睨み付ける。

「ふーん?」

 意地悪げな笑みを浮かべて少年が少女を見やった。

「……っ」
「あれあれ、おっかしーの。校内では携帯の電源切ってないといけないんじゃなかったでしたっけ?」
「……」
「ふっしぎーふっしぎー」

 拍子をつけて囃すように言う少年、心底楽しそうである。少女は下唇を噛んだ、恐らく悔しいのだろう。この娘はこういう表情をするときが一番そそられるよなぁ、と少年は思った。

「意地悪だわ」
「まぁね」
「陰険」
「まぁね」
「いんきん」
「まぁね」

 ガタガタっと椅子を鳴らして少女が距離をとった。恐る恐るといった風情で聞く。

「……いんきんなの?」
「だったらどうする?」
「聞いてないわ、そんなの。言いなさいよ、馬鹿」
「へへへ」
「へへへ、じゃないわよ。何笑ってるの、信じられない。あなた、もしわたしに伝染してたら絶対に許さないから」
「んー」

 メールを打ち終えたのか、少年は携帯電話をたたんでポケットにしまった、ズボンのポケットに。あのポケットの奥にいんきんたむしに冒された少年の陰部がある、と考えて少女は頬を染める。羞恥にではない、あ、いや、羞恥もあるがそれと同じくらい怒りも篭っている。
 立ち上がった少年はぐーっと伸びをしてから少女に向き直った。少女の眼差しに浮かぶ侮蔑に近い感情を受けて心地よいと感じる彼は、少しばかりマゾヒストのケがある。にっと笑った。

「それじゃ俺、そろそろ帰るわ」
「帰る? 帰るって、あなた」
「お前帰んないの?」
「え、そりゃ、帰る、帰るわよ。でも、その」
「いんきんたむしとは一緒に帰りたくない?」
「……別に、そういうわけじゃ」
「じゃ、どういうわけ?」

 口ごもる少女に少年は距離を詰めた。いつもは取り澄ましている少女だけれど、今日ばかりは、今ばかりはどうにも普段の冷静さを保てない。
 ああ、いつもこれくらい考えてることが分かりやすかったらいいのに。ああ、でもこの鉄面皮がいいんだよなぁ、非常にグー、そそられる。
 口には出さずそんなことを考えて、やっぱりこの少女の感情、怒りでもいい、悲しみでもいい。困惑だっていいし、でも出来れば喜びとか幸せそうな顔とかそういうのがいいのだけれど、とにかく普段何故だか貼り付けている無表情の仮面の下にある本当の彼女らしい表情が、本当に好きなんだと少年は改めて自覚した。
 自覚したはいいが、先日身体と身体で初めての交わりをしたばかりの彼女に、いんきんたむしとかそんな冗句はきつかったのだろうか、とそんなことを思って苦笑する。苦笑して、微笑んで、少年は少女に、自分の恋人に「ほら」と手を差し出した。

「ほら、一緒に帰ろうぜ」
「……」
「おててつないで、さ。昨日みたいに、その前みたいに。俺らが始めてえっちしたあの日みたいに手をつないで、一緒に帰ろうぜ」

 にひひ、という笑顔はある意味とても純粋、いやいや、純粋というか彼らしい笑顔だ。
 つい「うん」と頷きそうになって、しかし思いとどまる少女。騙されるな、あの手はさっき携帯電話をポケットに押し込んだとき、いんきんたむしの発生地点とニアミスした防疫対象有害指定物件だ。
 きっと口元を引き締めて言う。かといってそのことを直で言う――いんきんは汚いので今すぐその手も洗ってらっしゃいな、でないと手なんてとてもつなげません――のは流石に憚られるので微妙にありがちな方向へぼかして、引き締めた硬い口調でそれっぽく言う。

「変なこと言わないで」
「変って、何が」
「……その、えっちとか」
「照れるな照れるな! まぁそのエッチのせいでいんきん伝染されたかもしれないかと思えば、そりゃあ怒るかもしれないし、初めての思い出が汚されたとかって思うかもしんないけど、怒るな怒るな! 照れるな照れるな!」
「ひとの感情を勝手に決め付けて話さないで」

 かかかか、と好々爺のように笑う少年にびしゃりと言って、少女は机の上に広げていたノートを通学鞄にしまった。がさがさと、乱暴に。
 それから椅子を片付けて、鞄を手に取る。目の前には相も変わらず先ほどから差し出されっぱなしの少年の手。彼の言うとおり、昨日は手をつないで帰った。あの日もそうだった。
 そんな手を見やり、しかしフン、と鼻息を鳴らして少年の脇をすり抜ける。鼻息を鳴らすなんて、少し下品だったかしら。長い黒髪が少女の動いたその軌跡を追ってふわりと、こちらは上品に流れた。
 あらら、と少年が言う。

「あれ、ねぇ、マジで一緒に帰んないの?」
「知らない」
「うっそ、つれねー。素でご機嫌斜めじゃん。おいおい、そんなに怒るなよー、切ないじゃんか」
「知らないわ」

 部室の扉を抜けて廊下に出る。少女はつかつかと歩いて行ってしまい、少年は慌ててドアの脇に掛けられている部室の鍵を取りつつ後を追った。

「おーい、おいおい、おいっ、部室の施錠はー?」
「あなたがやりなさい」
「俺部員じゃねーもんよ」
「あなたがやりなさい」
「だから、俺、部員じゃないっての」
「あなたが、やりなさい」
「……ちぇっ」

 舌打ちを一つ。後ろ手に閉めたドア、ノブの下の鍵穴に鍵を差し込んでがちゃと回す。施錠自体はそれだけで終わりだ。何も少年があそこまで面倒くさがる理由は無い。
 少年が面倒なのはこの後のことだった。閉めた部室の鍵を職員室に返しに行かないといけない。
 ため息をついて一言、めんどいわぁと呟いて顔を上げる。とうに少年を置き去りにして歩き出していた少女は廊下の突き当たり、昇降口のある一階への階段を下りようとするところだった。
 その後ろ姿に向かって声を張り上げる。

「おーい!」
「……」
「さっきのアレ、嘘な!」

 ぴた、と少女の歩みが止まる。

「お前の表情を変えてやりたくてついた嘘なんだけど……」
「……」
「俺、いんきんじゃないからー!」

 くるりと振り返った。距離があってその表情は読めない。

「だから安心しろー!」
「……」
「お前にもいんきんは伝染ってないからー!」

 ぼんっと階段の前にいた少女の顔が赤くなった、遠目にも分かるほどに。しかも少年の方に向かって猛烈な勢いで駆け寄ってくる。
 少年はそんな恋人を両手を広げて迎えた。
 少年に迎えられた少女はそのままの勢いで少年にもの凄いとび蹴りをかました。





「失礼しましたー」

 職員室の扉をしめて挨拶、少年はそうしてようやくひと心地ついた。ようやくひと心地ついたその顔に、なかなか消えそうに無い上靴の靴痕が残っているのが痛々しい。けれどその傷を負う際にちらりと覗いた薄緑色のアルカディーアを思えば、まぁこの程度ならトントンだよなと思える。思えてしまうから彼だから少女の方は堪ったものではないのだけれど。
 少年の脇に立つ少女は未だ憮然とした様子を隠しもせず、眉間に皺を寄せて腕を組んでいる。同年代の少女たちと比べると、少女の胸は一回りも二回りも大きい。その胸で腕を組もうとすれば、自然組まれる腕がその豊満な胸を持ち上げて、ある意味セックスアピールのような色気をかもし出すことに、自分に無頓着な少女は気づいていない。
 ちなみに少年は気づいている。しかも彼のクラスメートの男子たちが彼女がそうするたびに、魅力的に持ちあげられるその胸に視線を奪われていることさえ知っている。知ってはいるが、かといってそれに嫉妬するでもなく、それを見るクラスメートたちを咎めたてるでもなく、ただその事実を少女に教えてしまえば、このまさしく眼福な少女の癖が無くなってしまうかも知れないと考えて、それだけはすまいと心に決めているのだった。
 ちらりと盗み見るように少女の胸に視線をやった。やはり持ち上げられている胸、圧倒的。薄手の夏の開襟シャツにブラのラインが透けている。その胸をこの間、初めての性行為に及んだ際に揉みまくって乳首も舐めまくったんだと考えてしまい、少年は前かがみになった。
 そんな少年を少女は不審そうにみやる。

「あ、なんでもないなんでもない」
「そう?」
「うん、大丈夫なので気にしないでください」
「そう」

 そして歩き出した少女の後を少年がついていく。ズボンのポケットに手を突っ込んで、前かがみのまま。全ては勃起してしまったその状況を誤魔化すためだけに。
 前を行く少女の後姿。背中まで届く長い髪が、彼女の所作に合わせてさらさらと揺れる。その少し下、彼女の歩みに合わせてぷりぷりとした尻。ちょっと前に揉みしだいた尻、さらに前かがみは深刻化。
 いつか裸エプロンをさせる、絶対にさせる。
 とそんな妙な決意を固めているところに、少女が唐突に振り返った。どきりとした。どきりとした緊張がさらに少年の前かがみを深刻化させる事態に発展、だって彼には少しだけマゾヒストのケがあるから。
 振り返った少女がまっすぐ彼を見て言う。

「ねぇ」
「な、なんでございましょ」
「ほら」

 手を差し出した。

「なに?」
「手、つながないの?」
「あ?」
「帰るんでしょ?」
「おう」
「なら、手」

 少女の差し出す手。
 そういえばさっき彼が自分で言ったことだが、昨日もそうだったし、あの日もそうだった。最近はもうずっと、手をつないで下校するのが二人の習慣になっている。
 なるほど、だから手か。
 少年は一人頷いて、ポケットから手を出そうとし、しかし手を出せない。手を出してしまったら、ポケットの中で必死に指を伸ばし押さえつけている―――、いまや隆々とした逞しさを見せ付ける彼のペットボトルロケットが、既に発射直前の状態でスタンバっていることまで知られてしまう。
 ああ、こんなことがばれたらまた呆れられる。そして冷たい視線で見られる。こんなときに冷たい視線なんて向けられたらマジでロケットは飛び立ってしまうかもしれないじゃないか。
 余談だがペットボトルロケットはエアポンプによって高まった内気圧で、その身に蓄えた水を噴射して飛翔する。つまり、ペットボトルロケットの発射に水物というか液体はつきものなわけで、それは彼の肉ペットボトルロケットも同じなのである。それがどうしたというわけではないが。

「ぬ、ぬぬぬ」
「どうしたの?」

 唸る少年に少女は相変わらず色を見せない眼差しで聞く。

「ど、どうしたというわけでは」
「帰るのでしょう? だったら」
「いえ、それはそうなのですが、その、今現在国内は政情不安につき治安維持の手を緩めるわけには……」
「意味が分からないわ」

 俺だって分からんわい、と少年は思うが勿論口にはしない。

「やっぱり、どうかしたの?」
「べ、別に?」
「だって、明らかに普通じゃないわ」
「そんなことは」
「あなたが普通だった試しもないけれど」
「きみは時々唐突に失礼なことを言うよね」
「口調が変、きみ、なんて。あなたらしくない」
「僕だって、その、時々は紳士ですよ?」
「やめて、敬語とか、僕とか。なんだか気味が悪いわ」

 言いながらまた腕を組んで少年にいぶかしげな視線を向ける。
 例のごとく持ち上がるオッパイ。探るような視線。追い詰められていく状況。
 これでゾクゾクとした、あのときに近い感覚が背筋を駆け抜けるのだから本当にタチが悪い。ただセックスのときと違うのは、あのときは快感が股間から背筋を駆け上がっていったのに、今は脳が感じた快感に近い不確かなものが背筋を駆け下りて股間へ下り、股間でそれが快感に変換されて背筋をまた駆け上るという二段構成になっていることだ。
 この背筋をめぐる往復運動は、ただのセックスをするときに股間から脳へ至る一元的な動きと違い、ひっきりなしに背筋を痺れさせる。
 まずいな、と思った。
 そこに伸ばされる少女の手。

「ねぇ、本当に大丈夫」
「あ、こら―――」

 言いかけるが、しかしとき既に遅し。少女の手がポケットに突っ込まれた彼の二の腕を取った。くぃと引っ張られると、辛うじてペットボトルロケットに引っかかっていた少年の指先が離れる。
 パン
 とでも小さな音が響いたように、少年の股間にテントがそそり立った。しかもワンタッチ式。少年は未だ前かがみの姿勢なのだが、少年の顔を覗きこむようにして身をかがませていた少女には、瞬間的に体積を増した――ように彼女には見えた――その部分がしっかり目に入る。ちなみに身をかがませていた彼女だから、少年の視界には彼女が誇る見事な谷間もしっかり入っていたりして。

「……っ」
「いや、ははは」
「……」
「ご覧の通りの聞かん棒でさ、ははは、参ったネ!」
「……」

 少女の目がすっと細まった。冷たい眼差し。少年の心のエアポンプがぎゅんぎゅんと唸りをあげて肉ペットボトルロケットに空気を押し込んでいく。
 やばい、落ちつけ、こちらコントロールセンター、まだ早い、というか発射の許可は出してない、というか出せるわけねー!
 そんなことを思う少年だが、その愛しい少女はそんな彼の気など知らぬ気にくるりと少年に背を向けた。
 ああ、助かった。というのが少年の素直な心境である。これ以上あの冷たい眼差しを向けられていたら、ここ数分でかなりのマゾヒストに激進を遂げた少年のコントロールセンターはペットボトルロケットにゴーサインを出してしまっていたかもしれない。ああ、でもこの冷たい無関心と言うのもそれはそれで……って、危ない危ない、そんなことを考えていたら大いなる空がすぐ間近になってしまう。

「色即是空、空即是色、渇」

 なんて呟く少年に、先ほど同じかソレよりも早い足取りで遠ざかっていく少女。カツカツという足音が遠ざかっていく感覚が、置いていかれるようでまたヨシ、とかまた一歩ステップを上がる少年のマゾヒズムに乾杯。
 そのとき不意に少女が立ち止まり、ちらりと半身で視線だけ少年に向けた。そして一言。

「最低」

 ペットボトルロケット、発射ぁ!





「あなた、本当に最低ね」
「面目次第もございません……」

 夕暮れの堤防を、少年は少女に手を引かれながら帰っていた。遠くの稜線に沈もうとする夏の西日が世界を赤く染め上げる。ひぐらしがカナカナと鳴いていた、許されるなら少年も泣きたかった、心は既に啼いていた。
 とぼとぼ、という様子が今はなによりしっくりくる少年はジャージ姿である。脇に抱えたスポーツバックからは、学校の水道で乱暴に洗濯された制服のズボンとトランクスが覗いている。それが発射された肉ペットボトルロケットのもたらした被害である。少年は誤射だと言い張っている。

「そんなに溜まっていたの?」
「そういうわけでは……」
「だって、あんなのでそんななっちゃうなんて、普通じゃないわ」
「それが若ささ」
「信じられない、下劣」
「あ、やめて、そういう罵声、ただでさえノーパンは感度が上がるんだから」
「……」

 自分の恋人とはいえ、あまりにあまりなこの発言には流石の少女も頭痛がした。つないでない方の手で額を押さえ、声には出さず「最低」と口だけ動かす、罵声を聞かせるのはどうにも危険なようなので。ところがどっこいその仕草がまたよかったらしく、少年は唐突にクラウチングスタートしたくなった。
 少女は思う。何故自分はこんな男の告白に応えたりしたのだろう、と。
 少年はクラスはおろか、学年でも有数の問題児、というか馬鹿である。成績は悪い、数学は赤点だし、英語は母国語じゃないという理由だけで赤点だし、かといって母国語のはずの国語だって赤点だったし、歴史の授業だって「俺は過去には興味はない、前だけ向いていくのさ」とか言って赤点だし、理科だって生物の講義だけ、しかも人体、その上女性に関わる部分だけは満点で、他は赤点だというつき抜けぶりだったのだから、本当にどうしようもない馬鹿者だ。
 進級が危ういという話は本人を飛び越え、親はおろか恋人であるだけの彼女にも担任から直々に伝えられた。そのうえ担任は少女の手をとって、どうかあの馬鹿の面倒を見てやってくれ、と目に涙を浮かべて頼んでくる始末。ちなみに少年の両親も、まったく同じ行動を彼女にした。少女の成績は学年でもかなりの上位に入る。
 本当に、なぜわたしはこんな馬鹿と付き合って、しかも身体まで許しているのかしら。
 ちらりと少年を見やった。少女の半歩後ろを、しかしつないだ手はそのままにとぼとぼと着いて来ている。思わず言った。

「しゃんとしなさい」
「え?」
「しゃんとしなさいって、言ったの」
「しゃんとって言われても、この状況で外面ばかりしゃんとしても心は落ち込んでいくばかりなんだが」
「内面がボロボロなのは今更取り繕いようがないのだから、せめて外面くらいしゃんとしなさい」
「あ、今の傷ついた、傷つきましたよ?」
「……」

 手をつないだまま、ヨヨヨと器用に泣き崩れる少年に嘆息。わたしは本当にこの男のことが好きなのかしら。考えて、怖い結末に辿り着きそうだったので止めた。

「立ちなさい」
「酷いわ、酷いわ」
「立ちなさい」
「謝ってくれるまで立ちませんー、前言を撤回してくれるまで立ちませんー」
「立ちなさい」
「ふふふ、むしろ既に立っているがために立つことができないというこのアンビバレンス……」
「何を言って……、っ―――!」

 つないでいた手を振り解いて距離を取った。

「ようやく気づいたようだな、淡い緑に目が眩むぜ……ってかスカート短くした?」
「下郎」
「うあんっ、もっと言って!」

 うあんっと身悶える少年に少女は思わず遠くを見る。空が赤い、一番星は今日もキレイだった。

「ねぇねぇ、もっと言ってー、罵ってー」

 鼓膜を破ってしまおう、そうすれば世界はもっとすっきりするかもしれない。そんなことを思った。割と本気で。





 その夜。

「おやすみなさい、母様」
「ええ、暖かくして眠りなさいね」

 母親とそんなやり取りをして少女は自室にもどった。二十畳はゆうにある彼女の私室はそのまま彼女の両親の社会的成功を意味している。部屋に置かれた家具は全て一流のブランドのものだし、ウォークインクローゼットの中にはまだ袖を通したこともない衣装がさまざま放り込まれている。
 流石にベッドに天蓋がついているとかそんなことはないが、敷かれた布団は最高級の羽毛布団だ。むしろ彼女はそういった布団でしか寝たことがない。よって綿の布団の固さを味わったのは、最近ではもうどこが気に入って付き合っているかも分からないあの少年に抱かれたとき、あのとき味わったのが初めてである。
 その柔らかい羽根布団にボスンと身体ごと飛び込んで、枕に顔を埋めた。ベッドサイドのミニテーブル、置かれた充電器に携帯電話が鎮座している。ひょいと手を伸ばしてみれば、液晶画面に着信あり、三件。電話番号は全て少年のもので、彼女が電話に出なかったせいか、新着メールも二件入っていた。
 メールを開く。

『あのさー、いんきんたむしっていうのはマジで嘘だから信じないでちょうだいよ、頼むから。それと俺が学校でいきなりロケット飛ばしちゃった件はくれぐれも内密でよろしく。きゃっ、また二人だけの秘密が増えちゃったネ! それじゃお休みまた明日―』

 実に彼らしい内容だと、ため息。そんな秘密はいらない、増えんでよろしい、と耳元で叫んでやりたい気分だった。ちなみに彼と彼女の間に横たわる二人だけの秘密というのは殆どがこの類である、未だに彼の尻からもーこはんが消えてないとか、そんなことは別に知りたくなかった。
 もう一件のメールも開く。

『いっけねぇ、言い忘れてた! 愛してるぜ、my sweat。また明日、その鉄面皮を粉砕させてもらうぜよ、アデュー』

 あんなメールのあとに愛を囁かれても嬉しくも何ともないわ、それに鉄面皮粉砕ってなによ、失礼ね。
 と、少女は不服そうに、けれど笑った。だって「my sweat」では「わたしの汗」である。その辺のことも明日問いただし、かつ正しいスペルを教え込まなければなるまい。
 先ほどまでとは少しだけ意味合いの違う、優しいため息をついて少女は布団に入った。枕もとのスイッチを押して部屋の照明を落とす。暗くなった室内で目を閉じ、恋人であるところの少年のことを思った。
 思い浮かぶのは少年の笑顔。今日はシュンとした顔とか、色々な表情が見れたように思うが、少年の表情で思い浮かぶのは、普段の自分とはまるで真逆のあの明るい笑顔ばかりである。
 そして少女は気がついた。どうやらわたしはあの少年のあの笑顔が好きらしい、と。他によい点が思い浮かばなかったので、そう思うことでとりあえず納得しておいた。
 そうして一日が終わる。
 日付の変わる頃、暖かい布団の中でうつらうつらとし始めた彼女は「今度えっちをするときは、念のため本当にいんきんに掛かってないかどうか、それだけは絶対に確かめておく必要があるわね」とかそんなことを割と真剣に決めて、ようやく眠りについたのだった。





 同刻、恋人の妄想を種にひと頑張りしてから眠りについた少年は、しまりのない寝顔で屁をこいた、ぷぅ。
 心配せずとも彼はいんきんではない、マジでマジで。
 ちなみに翌日、「もしあなたが本当にいんきんなら、わたしは全力であなたの全身をくまなくキレイに掃除してやると決めたわ」とか恋人に言われて、彼は真剣にいんきんになるための手段を模索することになる。もちろん全力で少女に止められるのだが、真剣になった彼はなかなか止まらないのでそこでまたひと悶着あるのは当然の帰結なのです。
 でもそんな二人は実は恋人なので、今日も明日も結局はそれなりに仲良く日常を過ごしていくのである、完。

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